ローマ帝国とキリスト教
Contents
ローマ帝国とキリスト教
第一の弟子ペテロ
「私は知らない」
「本当に知らない」
「会ったことも見たこともない」
その男は周囲の人間に問い詰められるとそう答えました。
3度「知らない」と答えるとどこかで、おんどりの鳴き声が響きました。
外はいつの間にか明け方になっていたのです。
この場面はイエス・キリストが反逆罪に問われた裁判にまつわるワンシーンです。
男の名は「ペテロ」と言います。
イエスキリストの第一の弟子でもあり、初代ローマ教皇でもあります。
イエスの第一の弟子とわかれば、自分も処刑されるかもしれない。
とっさに出てしまった「知らない」の言葉。
ペテロは深く後悔しました。
その後、イエス・キリストがゴルゴダの丘で処刑されたことはご存知の通りです。
ペテロは自分のとった行動を深く悔いて、その後キリスト教の布教に尽力します。
当時はローマ帝国からキリスト教が弾圧されていた時期です。
首都ローマでの布教は自殺行為でしたが、布教活動を続けました。
結果、ローマ皇帝から迫害を受け亡くなりました(と推測されます)。
殉教(じゅんきょう)を遂げたペテロは、最後にイエス・キリストへの忠誠を貫いたのです。
ローマ·カトリック教会
その後、キリスト教がローマ帝国で公認(ミラノ勅令313年)されると、首都ローマにサン・ピエトロ大聖堂が建てられました。
サン・ピエトロはイタリア語で聖ペテロの意味です。
大聖堂が建てられた場所はペテロが埋葬された場所と伝えられています。
そこはローマ·カトリック教会と呼ばれ、キリスト教の総本山でもあります。
キリスト教は、各地で布教活動を行いながらやがて教会制度を確立させていきます。
ローマ帝国内にキリスト教会が建てられ、その中心となる教会が地中海沿岸に建立されます。
ローマ・カトリック教会
コンスタンティノープル教会
アレクサンドリア教会
アンティオキア教会
エルサレム教会
この5つがキリスト教の5本山と呼ばれます。
中でもローマ・カトリック教会はローマ帝国の首都であり、ローマ教皇(ローマ·カトリック教会の司祭)が在位する場所でもあります。
その地位の高さから、5本山の中でも総本山と呼ばれます。
初代ローマ教皇に故ペテロが任じられました。
帝国の分裂
ローマ帝国内でキリスト教布教が公認された後、ついに392年、キリスト教はローマ国教として認められます。
ユダヤ人とローマ帝国により迫害されたキリスト教徒が、勝利を掴んだ瞬間でもありました。
しかし、ほどなくしてローマ帝国は帝国の分割相続等の問題により東西に分裂してしまいます。
395年のことでした。
キリスト教が国教と認められてからわずか3年後のことでした。
西ローマ帝国とキリスト教
西ローマ帝国の滅亡
帝国が東西に分裂した後、東ローマ帝国と西ローマ帝国が誕生します。
東ローマ帝国はその後ビザンツ帝国と呼ばれ、首都をコンスタンティノープルに定めました。
西ローマ帝国は引き続きローマが首都です。
ところが、西ローマ帝国はゲルマン人の大移動などにより帝国内に異民族が流入し、混乱の末476年には滅びてしまいました。
そこで困ったのはローマ教皇です。
首都、そして総本山でありながら後ろ楯となる帝国が消滅してしまったのです。
ローマ教皇としては、ローマ・カトリック教会こそが総本山と言う自負があります。
しかし、ここに来てコンスタンティノープル教会の権威が高まり出しました。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都コンスタンティノープル。
そこに君臨するコンスタンティノープル教会。
迷走するローマ·カトリック教会に比べて、その存在感は日増しに高まりました。
強大な帝国に首都ローマを復活させ、キリスト教総本山としての地位を取り戻す。
それがローマ教皇としての最重要課題でした。
そのような中、西ローマ帝国滅亡後、各地にゲルマン人の民族が侵入してきたのです。
ローマ教皇の決断
ローマ教皇はまず、ゲルマン人にキリスト教を信仰させようとしました。
キリストの名の下に民族を一致団結させ、ローマ教会を守護させようとしたのです。
ゲルマン民族もキリスト教を信仰してはいましたが、彼らは当時異端とされていたアリウス派信仰です。
まずは彼らを正統派アタナシウス派へ改宗させる必要がありました。
キリスト教は313年にローマ皇帝により公認されました(ミラノ勅令)
しかし、当初は地域や弟子たちによって、教義の違いが見られました。
せっかく公認されたとしても、教義を一本化しなければ混乱してしまいます。
そこで325年教義の統一を行いました(ニケーア公会議)
結果、アタナシウス派が正統、アリウス派は異端となりました。
後述しますが、この際にローマ教皇がとった偶像崇拝が東西教会対立の溝を深めます。
ローマ教皇の地道な努力で各地にアタナシウス派が広まって行きます。
そんな中、登場したのがフランク王国です。
彼らはガリア(後のフランス)を統一し、フランク王国を建国していました。
フランク王国
フランク人もゲルマン民族の一派であり、元々はアリウス派でした。
しかしそのフランク王国がアタナシウス派キリスト教に改宗したのです。
これがきっかけでフランク王国とローマ・カトリック教会は急速に接近します。
フランク王国としては、ローマ教皇の権威、すなわち神の名の下での戦いと言う大義名分を得ることが出来ました。
ローマ教皇としては、西ローマ帝国に代わるローマ・カトリック教会の保護国、つまり強大な後ろ盾を手に入れたのです。
その後フランク王国は徐々に領土を拡大し、カール大帝の時代に最盛期となります。
800年、カール大帝は、ローマ教皇からローマ皇帝の冠を与えられました(カールの戴冠・たいかん)
ローマ帝国皇帝の地位を与えられたのです。
これは西ローマ帝国の復活を意味する歴史的出来事です。
イエス・キリストやペテロ達がローマ帝国に迫害された歴史からすると、不思議なことだと思います。
いつの間にか教皇が皇帝を任命すると言う逆転現象が起きているのです。
それほどキリスト教の力は絶大なものとなったのです。
神に認められなければ皇帝を名乗ることが出来ない。歴史とは不思議なものです。
東ローマ帝国とキリスト教
ビザンツ帝国
東西に分裂してからの東ローマ帝国はビザンツ帝国と呼ばれるようになります。
首都はコンスタンティノープルです。
コンスタンティノープル教会と結んだビザンツ帝国ではギリシア正教会が成立します。
一方、7世紀になると、アラビア半島ではイスラム教がおこり、イスラム教徒の国が出来上がりました。
イスラム帝国は領土拡大し、ビザンツ帝国は地理的にイスラム帝国と接することになりました。
このイスラム帝国がセルジューク朝トルコです。
そんな中、イスラム帝国による聖地エルサレムの占領が起きました。
他にも、五本山のうち、アレキサンドリア、アンティオキアも占領されてしまいました。
これに対し、ローマ教皇は、壮大なエルサレム奪還計画を進めます。
これが十字軍の遠征です。
十字軍
第一回目の十字軍は1096年のことです。
東方キリスト教会の危機でローマ教皇は聖地エルサレム奪還のため軍をたちあげました。
東西教会は対立してはいましたが、この危機を救えばローマ・カトリック教会の名をあげる絶好の機会です。
また迫りくるイスラム世界の脅威を何としても食い止めねばなりませんでした。
しかし、全八回にわたる十字軍の遠征は結果的に失敗に終わりました。
そもそも聖地奪還と言う美しい響きの戦いでしたが、内容はひどいものでした。
聖戦に参加すれば罪状を失効させるなど、およそ神の名の下の戦いとは程遠いものでした。
遠征先での略奪行為も横行し、言わば私欲のための戦いでした。
また、少年十字軍と呼ばれる痛ましい話もあります。
聖地奪還のため少年たちが立ち上がり、十字軍を名乗りました。
その少年たちをエルサレムへ送り届けるはずの船主は実は人身売買の商人でした。
騙された少年たちは聖地奪還どころか、北アフリカに売り飛ばされその後は奴隷とされてしまったと言う話です。
約200年間にわたり、十字軍遠征は行われました。
結局、聖地奪還は失敗し、ローマ教皇の権威は弱まってしまいました。
その後ビザンツ帝国は1453年にオスマン帝国に滅ぼされるまで存続します。
東西教会の対立と和解
ローマ帝国が東西に分かれてから、ローマ·カトリック教会とコンスタンティノープル教会の対立は深まります。
お互いがキリスト教会の最高権威であると主張したのです。
ローマ教皇がゲルマン人やフランク人をアタナシウス派に改宗させるためにとった政策、偶像崇拝も対立の溝を深めました。
ユダヤ教にせよイスラム教にせよ、偶像崇拝は固く禁じています。
しかし、ローマ教皇はキリスト像や聖母マリア像を崇拝させることで、ゲルマン人達を取り込んで行ったのです。
伝統的に偶像崇拝を禁じていた東方教会は、これに真っ向から批判しました。
とどめは十字軍の第四回目に起きました。
十字軍によるコンスタンティノープル占領です。
あろうことか味方の首都を占領してしまったのです。
戦地であるエルサレムへ行く資金が足りなくなり、コンスタンティノープルで資金調達を始めたのです。
しかも戦費は調達したものの、その後結局敵地へは行かないと言うお粗末な遠征でした。
西から来た十字軍が東の首都を占領したことで、東西教会の決裂は決定的になります。
この東西教会の対立ですが和解したのはなんと1965年。つい近年のことなのです。
ローマ教皇とコンスタンティノープル総主教との間で歴史的和解がなされ、ようやく東西の融和がなされたのです。
1 ローマ·カトリック教会がキリ
スト教総本山
初代ローマ教皇がペテロ
2 ローマ帝国東西分裂後、東西
教会の対立が深まる
3 西ローマ帝国の滅亡後、覇権
を握ったのがフランク王国
4 十字軍によるコンスタンティ
ノープル占領により東西教会
の対立は激化