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フランスの歴史②

フランス革命がもたらしたもの

ブルボン朝の時代に起きた世界史上重要な出来事がフランス革命です。

革命が起きた背景には、厳しい身分制度や国家の財政難があげられます。

絶対王政期のフランスでは聖職者・貴族・平民と身分が分類され、人口の約90%以上は平民が占めていました。
聖職者や貴族は納税の義務がないため、全ての税金は平民たちが納めていました。
そのため平民達の生活は非常に厳しいものでした。

絶対王政期の厳しい階級制度をアンシャンレジームと呼びます。

1776年にはアメリカで独立戦争が始まりました。
アメリカ東部13州がイギリスからの独立を目指した戦争です。

この独立戦争にフランスが加担し、アメリカの独立を支援しました。
これらの戦費の支払いに国家財政も苦しい状況になります。

第三身分の平民だけからの納税では立ち行かなくなったフランス国王ルイ16世は、とうとう第一身分の聖職者や第二身分の貴族からも税金を徴収しようとしました。

厳しい身分制度、そして財政難。
さらには、この時期には人間のあり方についての新しい考え方、啓蒙思想が人々の心に芽生えていきます。

そのような状況の中、独立戦争でのアメリカの勝利は、閉塞感漂うフランス国民に大いなる希望を与えました。
古い体制に反抗し新しい体制を作る。
アメリカ独立戦争は、その最たる例だったからです。

不満と希望、そして啓蒙思想と言う新しい考え方。

それらの条件が揃い必然的に発生したもの、それがフランス革命でした。
「自由」「平等」「友愛」を目指したこの革命は民主主義の基礎を作りました。
フランス革命により、人権思想が広まり、身分差別の撤廃がもたらされました。

フランス革命(1789年)は、近代思想への歩みを一歩踏み出すきっかけだったのです。
そのフランス革命はなぜ、そしてどのようにフランス国内に広まっていったのでしょうか?
その経緯を見ていきましょう。

革命の始まり

フランス革命がまだ始まる前のことです。
国王ルイ16世は三部会を招集します。

三部会

フランスで古くから行われた身分制の議会です。

第一身分の聖職者、第二身分の貴族、そして第三身分の平民達の代表者達で構成されます。
主に国王が国民の支持を得るために開催されたものですが、実際のところ王の権力が非常に強くあまり招集されることはありませんでした。
フランス革命時に招集されたのは、実に約200年ぶりのことでした。

ルイ16世は、聖職者や貴族から税を徴収する理解を得るため、三部会を招集しました。
しかし、ここで三部会内で意見がまとまらず、第三身分の平民たちは独自に国民議会を発足させます。

第三身分からなる国民議会は、人権を重んじ、身分差別の撤廃を叫び、国王に憲法の制定を認めさせようと誓いあいました。
憲法を制定するまでは議会を解散しないと言う誓いです。

この国民議会を国王ルイ16世は弾圧しようとします。
そのために国王はヴェルサイユに兵を集め始めました。
それに対して民衆が起こしたのがバスティーユ牢獄への襲撃です。

バスティーユ牢獄には弾薬や火薬が保管されており、戦いに備えるため民衆が襲撃したのです。

この襲撃をきっかけに民衆の暴動は瞬く間に各地に広まります。

そして同年、国民議会はフランス人権宣言を発表します。

これは、全ての人間の平等を説き民主主義の基本原理となったものです。

国王はしぶしぶこれを認めました。

全ての人間を平等とする人権宣言は、言わば国王を初め、特権階級を否定するものです。

これを認めることは国王や特権階級の権利を放棄することになります。

しかし、これを拒否出来ないほど、革命の力は大きなものとなっていたのです。

ルイ16世の失態

フランス革命は当初、絶対王政を否定するものの、王の存在までも否定するものではありませんでした。
議会が目指したものは立憲君主制です。

君主(国王)は存在しつつも、憲法や法により国家を統治する政治体制を求めたのです。
それが立憲君主制です。
国王のプライドを保とうとする計らいでもあったのです。

現在の日本とほぼ同じスタイルと思ってよいでしょう。
※天皇が君主として存在し、憲法によりその権限を制限し国家を統治するスタイルです。

しかし、ヴァレンヌ逃亡事件により事態は一変します。

ヴァレンヌ逃亡事件

革命後、国王ルイ16世や王妃のマリー・アントワネットや特権階級身分の者が国外脱出を試みます。
マリーアントワネットはオーストリア出身の王妃です。母国に亡命し、再び特権階級の身分のある生活を手に入れようと試みます。

しかし、これは亡命のさなかに発見され捕まってしまいました。

マリー・アントワネットは亡命する身分にも関わらず、綺麗に着飾り、馬車の装飾も派手であったため一目で王族の馬車と見破られてしまったのです。

王妃としてのプライドが邪魔をし、逃亡計画は失敗に終わります。

国を捨て逃亡を図ったルイ16世たちの信用は一気に失墜します。

この事件により、フランス国内は「国を捨てようとした王などはいらない」と言う風潮になっていきます。
そのため立憲君主制を認めることは出来ず、国王の存在を前提としない国家制度「共和制」への移行が強く主張されるようになりました。
※共和制→国民の代表者が国家を統治する政治体制。アメリカの大統領などが当てはまります。

こうした中で、議会の内部は立憲君主を目指す派と、国王そのものを排除する共和制派の争いが激化していきます。
結局は共和制派の勢いが増していきます。この急進的な共和制派をジャコバン派と呼びます。

このジャコバン派の代表がロペスピエールです。

国王の逃亡未遂事件、議会内部の対立そして革命による民衆の蜂起(ほうき)により
フランス国内は非常に不安定な時期が続きます。

そのような中、力を持ったロペスピエールらジャコバン派は反対勢力の弾圧を始めました。
不安定な国内情勢を武力で鎮圧しようとしたのです。

それが恐怖政治です。

恐怖政治

恐怖政治とは政治の方針を批判する者を処刑していく、まさに恐怖で人民を支配する政治体制です。

ロペスピエールらに反発する者達は次々に処刑されていきました。

この一連の流れで、ルイ16世やマリー・アントワネットも処刑されてしまいます。
これを持ってフランス国内は王政に終わりを告げ、共和制へと移行します。

その後、フランスは王政と共和制が交替交替で繰り返されます。

現在、フランスは第五共和政の政治体制です。
この時期(1792年~1804年)の共和制は第一回目の共和制にあたります。
フランス初の共和制は第一共和制と呼ばれます。

しかし、恐怖政治に不満を持つ人々によりやがて内乱が発生し、ロペスピエールらは逮捕され結局処刑されてしまいます。
(1794年テルミドール反乱)

王政の復活

ロペスピエールらの処刑を持ってしても、国内の混乱は収まりませんでした。
さらにフランス革命は近隣ヨーロッパ諸国からも厳重に警戒されました。
革命の余波が自国内に及ぶことを恐れた諸国の結託により、フランスは孤立していくことになります。

このフランス内外の危機に対処するために求められたもの。それが圧倒的な軍事力です。
そして、ここで登場したのが軍人として華々しい活躍を果たしていた英雄ナポレオン・ボナパルトです。

フランス国内は強力な指導者を求めていました。
混乱する国内を収め、そして迫りくる国外の危機を打破できるカリスマ的な指導者です。

ナポレオンはまさにその人だったのです。

軍人であったナポレオンは革命政府を滅ぼします。
そして1804年、ナポレオンはフランスの皇帝になります(ナポレオン一世の誕生)
これによりフランスは共和制から王政へと戻ることになります。
こうしてフランス革命により崩壊した王政ですが結局10年足らずで王政が復活することになったのです。

ナポレオン一世による王政を第一帝政と呼びます(1804年から1814年)

ナポレオン・ボナパルト

ナポレオンは1769年、地中海のフランス領コルシカ島に生まれました。

その後フランス本土の陸軍士官学校を経て、共和制下のロペスピエールの下、軍人として働きます。

議会のジャコバン派リーダーロペスピエールです。

しかし、ロペスピエールが処刑されたことによりいったんナポレオンも失脚してしまいます。

ところが、彼の軍事的なカリスマ性からイタリア方面軍司令官に任命され、イタリア北部までフランス領を拡大します。

さらにナポレオンはエジプト方面軍に任命されました。
しかし、エジプトでナポレオンは本国フランスの危機の知らせを受けます。
イギリスがオーストリアやロシアと同盟しフランス国境付近を脅かしたのです。

ナポレオンはその危機を知ると、すぐにパリに凱旋し、無力な政府を打倒、独裁権を得ます(ブリュメールクーデター)
取って返し、ナポレオンはオーストリアを撃墜しイギリスとも講和に成功します。

こうして国家の危機を救ったナポレオンは国民からの絶対的支持を得て、ナポレオン1世として皇帝の座に付きました。
これにより第一帝政が始まります(1804年)

その後破竹の勢いで戦争に勝利し続けたナポレオン1世でしたが、ロシアとの戦いで大敗北を喫します。
60万の軍勢でロシアを攻めましたが、戻ってこれたのはたった5000人程度の大敗北でした。

これがきっかけでナポレオンはエルバ島に追放されます。

こうしてフランスはルイ16世の弟ルイ18世が王位につき、ブルボン朝が復活します。

しかし、ルイ18世の特権身分を優遇する旧制度の復活は、国内から不満の嵐が吹き荒れました。

そこに目をつけたナポレオンは、エルバ島をひそかに脱出し、再び王位につきます。

しかし、ナポレオンはイギリスなどに完敗し、今度はセントヘレナ島に流されます。
たった百日の王位。これを百日天下と言います。

フランスは再度、失踪していたルイ18世が王位につきました。

こうしてナポレオンはセントヘレナ島にて51歳の生涯を終えます。
一説には毒殺であったとも言われています。

島で生まれ育った天才的な軍事戦略家ナポレオン。
最期も島の中で過ごすことになったのは偶然でしょうか。

その後、フランスは再度ブルボン朝が復活することになります。

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