



キューバ政府は完全にアメリカ合衆国の言いなりでした。
そのような状況、そして一部の富裕層以外極貧の生活を強いられる農民たち。
不満は限界を越えていました。
極端すぎる資本主義社会の弊害(へいがい)が出てきたのです。
そして、いよいよキューバ国内に革命の足音が聞こえ始めます。

フィデル・カストロとチェ・ゲバラ
キューバ、バティスタ政権の時でした。
変わらないキューバの体質。
アメリカへ依存する政権、しかも上層部だけが潤うシステムにキューバ国民の不満は爆発寸前でした。
そのような中、二人の男が表舞台に登場します。
フィデル・カストロとチェ・ゲバラです。
フィデル・カストロはキューバ出身の弁護士です。

彼は、アメリカに都合よく利用される古きキューバの体制に不満を持ちます。
アメリカと結託した政治家や一部の富裕層だけが潤う社会に強く反発しました。
しかし、反政府運動を起こしたカストロは弾圧され、メキシコに亡命します。
カストロとゲバラの出会いは、このメキシコでのことでした。
1956年には、再度バティスタ政権と戦闘を繰り広げます。
1959年に戦いに勝利したカストロは事実上キューバの最高権力者の地位を手に入れました。
キューバの最高指導者となったカストロは、国内の改革に着手します。
アメリカ人が所有するさとうきび畑を没収し、小作農に分け与えるなど農地改革を行いました。
しかし、結局その政策はアメリカ企業のキューバからの締め出しに結びつき、反発を受けます。
結局この後、カストロは社会主義政策へと方針を転じ、ソ連と急接近します。
キューバ革命~キューバ危機、そして戦友ゲバラの死
カストロの人生は激動でした。
祖国キューバのために尽くしてきました。
しかし、共産党一党であったため、カストロの政策はほぼ独裁であったと言えます。
行き過ぎた政策は、国民からの反発を買うことになります。
カストロ政権を嫌う多くのキューバ国民は、アメリカ合衆国へ亡命しました。
さらにソ連崩壊(1991年)により経済援助も受けられず、深刻な経済悪化を招きました。
このためカストロの評価は大きくわかれることになります。
アメリカをキューバから追い出し、キューバ人による国家を再建したことは大きな功績です。
しかし、経済面から言えば、「バティスタ政権の時のほうが、まだ良かった」という意見もあります。
キューバ革命、そしてキューバ危機と長らく国交が断絶していたキューバとアメリカ。
そんなキューバとアメリカですが、2016年に国交が回復します。
アメリカ大統領オバマ政権(民主党)の時でした。
その直後、カストロは90歳の生涯を閉じました。
弟はラウル・カストロです。
チェ・ゲバラの「チェ」はスペイン語で親しみを込めた呼びかけの言葉です。
「やあ!」程度のノリでしょう。
ゲバラがよく挨拶の時に「チェ!」を愛用していたため、つけられたニックネームです。
本名はエルネスト・ゲバラです。

ゲバラはアルゼンチン生まれの革命家です。
ところが実は、ゲバラは医者でもありました。
比較的裕福な家に育ち、元々ぜんそく持ちで体も弱かったゲバラは、医者を志したのです。
なぜ医者であり、ぜんそく持ちのゲバラが革命家に転身したのでしょうか。
きっかけは南米中を旅したことでした。
道中に垣間見た貧しい人々の暮らし、重い病気や飢え。
裕福な暮らしをしていたゲバラにとって、初めて触れる光景ばかりでした。
そのような中、ゲバラはマルクス主義と出会い、社会主義に傾倒していくことになります。
ボリビアでの反政府運動、グアテマラの先住民への復権、農民たちへ土地分配など熱気的な革命に触れ、ゲバラの革命魂に徐々に火が点いていきました。
なぜ裕福な人間だけが幸せになれる権利を持つのだろうか。
ゲバラは困窮を極め、無念に人生を終えていく人々のために立ち上がる決心をします。
そして、ゲバラはメキシコにて運命の出会いを果たしました。
フィデル・カストロとの出会いでした。
各地を旅し、貧富の差を目の当たりにし、時には政府に反抗する農民の姿を前に焼き付けてきたゲバラ。
キューバの惨状を知ったゲバラはカストロが掲げる打倒バティスタ政権に強く共感しました。
カストロと共にキューバ革命を成功させたゲバラは、その後も南米の革命運動に参加していきます。
コンゴやボリビアの革命運動に加担していきますが、最後はボリビア政府を支援するアメリカにより捕えられ処刑されてしまいました。
1967年、ゲバラ39歳の時でした。
キューバ革命

キューバ革命はキューバを社会主義国家化させるための革命と思われがちです。
しかし、実際のところは少し違います。
当初、カストロの目的は、大国アメリカ合衆国の傀儡(かいらい)政権であるバティスタ政権を倒すことが目的でした。
※傀儡(かいらい)=言いなり、操り人形。
当時、キューバはさとうきびの世界有数の産地でした。
砂糖を輸出して莫大な利益をあげていたキューバ。
しかし、その利益は一部富裕層のみが手にし、さとうきび畑のほとんどを所有するアメリカ企業の利益となりました。
その利益は、あくせく働くキューバの農民の手には一切手に入らなかったのです。
そこでバティスタ政権に反旗を翻したのがカストロです。
打倒バティスタ政権で立ち上がったカストロ。
しかしクーデターは失敗し、カストロはメキシコへ亡命することになりました。
カストロはそこで運命の出会いを果たします。
ゲバラとの出会いでした。
1956年に、カストロは、ゲバラと共に82名の革命同士を率いキューバに乗り込みました。
たった82名!?と思うかもしれませんが、カストロとゲバラには勝算がありました。
キューバでの革命の話を聞けば、バティスタ政権に不満を持つ農民たちが一斉に蜂起するとにらんでいたのです。
そのため、カストロ達はあえてキューバ上陸作戦を事前に大々的に宣伝しておいたのです。
しかし、これが裏目に出ました。
カストロ達の動きが筒抜けになったため、バティスタ政権軍に完膚なきまで叩きのめされてしまいます。
結局、12名になってしまったカストロ達。
ところがカストロ達は諦めませんでした。
ゲバラは元医者です。
彼は敵であるバティスタ政権軍の兵であっても、傷ついたものには手当を施しました。
行く先々の村にも食料を分け与え、負傷した村人たちの治療も行いました。
その誠意がやがてキューバの農民達の心を動かしました。
※ゲバラのこの良心的な行為に対して、カストロはよく思っていなかったようです。
自分たちが苦しい状況の中で、敵や農民に貴重な食料や医療物資を分け与える行為が理解出来なかったのでしょう。
しかし、ゲバラの好意に応えるかのように、日増しに革命軍は増えていきました。
そしてついに、バティスタ政権を打ち倒すことに成功したのです。1959年のことでした。
キューバとアメリカの決裂
バティスタ政権の敗北は、同時にアメリカ合衆国とキューバの決裂を意味しました。
カストロが農業改革を行い、農地の解放を行ったからです。
ほとんどアメリカ企業が所有していたサトウキビ畑を強制的に没収し、キューバの小作農に分け与えたのです。
これに対し、アメリカのアイゼンハワー大統領はキューバからの砂糖の輸入を制限し、キューバへの石油輸出を制限しました。
この手痛い経済制限に対し、カストロ達の取った路線。
それは、ソヴィエト連邦との接近でした。
キューバの社会主義化
元々はバティスタ政権を転覆させることが目的だったカストロ。
しかし、思わぬアメリカからの経済制裁を受け、手痛いしっぺ返しを受けました。
そこで接近してきたのがソ連です。
アメリカの経済制裁に対し、キューバは銀行の国有化など、社会主義路線に方針が変わっていきます。
アメリカが輸入を禁じた砂糖は、ソ連が買い取ってくれることになりました。
こうしてソ連とキューバは急接近することになったのです。
元々マルクス主義者であったカストロは、1961年、キューバの社会主義路線への方針変換を宣言しました。
キューバ革命とは、単にバティスタ政権を打倒し、カストロがキューバの政権を奪取した事件のことではありません。
キューバ革命とは、カストロが政権を奪い、アメリカと敵対したこと。
そして、ソ連と接近しキューバの社会主義政策が固まった一連の動きのことを指します。
ラテンアメリカ初めての社会主義国
第二次世界大戦後、世界勢力は2分されていました。
アメリカ合衆国を中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営です。
この東西のにらみ合いを冷戦(れいせん)と言います。
一部の潤う資本家を否定し、労働者のための社会を築こうとする社会主義思想。
アメリカ合衆国にしてみれば、自国の国家システムを狂わせかねない社会主義思想が蔓延することを恐れました。
朝鮮戦争はその最たる例です。
資本主義陣営は世界各地に存在しています。
遠く離れたアジアでも社会主義の脅威は迫っていました。
日本や朝鮮半島もそうです。
社会主義陣営に取り込みたいソ連。
必死に社会主義化を阻もうとするアメリカ。
それがきっかけで起こったのが朝鮮戦争です。

世界各地で社会主義運動を警戒するアメリカ。
まさか自国のすぐ脇腹、カリブ海で社会主義の脅威が生まれるとは思いもしていなかったことなのです。



当初、カストロの目的はバティスタ政権を打倒することであった。
キューバ革命とは、バティスタ政権を打倒し、キューバがアメリカと決裂、社会主義宣言(1961年)を行った一連の出来事である。
ラテンアメリカ初の社会主義国キューバに、アメリカは大きな危機感を持つことになる。


