鋼鉄の人、スターリン1
その残虐性のあまり、あのヒトラーでさえドン引きした男、スターリン。
今日はスターリンのお話です。
ヒトラーがドン引きって・・・。まじやばくないか。
スターリンって何となく耳にしたことはありますけど、どこの国のいつの時代の人なんですか?
時は社会主義革命を終えた時代のロシア。
つまりソヴィエト連邦(ソ連)です。
ソ連建国の父レーニンの後継者。
それがスターリンです。
かつて、あのヒトラーでさえ、理解に苦しむほどの残虐性を持った男がいました。
その男の名前は、スターリンです。
数百万の国民を死に至らしめた大粛清(だいしゅくせい)
密告による不安にかられた社会
ノルマ化された処刑
恐怖による支配を確立し、国家の最高指導者として君臨したスターリン
しかし、一方でスターリンは社会主義国家としての基盤を作り、第二次世界大戦ではソ連を勝利に導いた指導者でもあります。
戦後の東西冷戦において、大国アメリカと対等に渡り合ったのもスターリンの力によるものです。
良い評価も悪い評価も極端なスターリン
スターリンとは一体どのような人物だったのでしょうか。
それでは行ってみましょう。
もっと詳しくスターリン!
ヨシフ・スターリン
スターリンは1923年から1953年まで、ソ連の書記長を務めた人物です。
書記長とは、共産党の党首のことです。
ソ連は事実上共産党の一党独裁であったことから、書記長がソ連の最高指導者ということになります。
単純に1番権力がある人と思ってもらえればよいと思います。
初代の最高指導者はレーニンです。
ソ連建国の父です。
スターリンは、貧しい生まれながらも、頭脳明晰でソ連の最高指導者まで上り詰めました。
ロシア革命後のソ連の五か年計画を導き、工業を発展させ、軍事力強化に務め、第二次世界大戦勝利の立役者となりました。
その後の冷戦では大国アメリカと対等に渡り合う礎(いしずえ)を築きました。
それらはスターリンの圧倒的な指導力によるものでした。
しかし、その裏では冷酷非道な限りを尽くしてきた人物でもあります。
ソ連を強国にするためには、国民の犠牲をいとわない人物でした。
多くの餓死者(がししゃ)を出しても、国家優先政策のため、穀物を搾取(さくしゅ)し続けました。
権力を手に入れるためには、力を持つ仲間達をも殺害していきました。
非道の限りを尽くしたスターリン。
その生い立ちはどのようなものだったのでしょうか。
神など存在しない
ヨシフ・ヴィッサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリ
これはスターリンの本名です。
スターリンとは、ヨシフのペンネームで「鋼鉄の人」を意味します。
ヨシフは、共産党の広報を担当し、そこで機関誌の執筆をするにあたり、スターリンのペンネームを使用したのです。
1878年12月18日、ロシア帝国時代の真っただ中、ヨシフは、グルジア(現ジョージア)の小さな農村ゴリで誕生しました。
ヨシフは貧しい靴職人の子として生まれました。
父はアルコール中毒で、ヨシフに対し暴力を働いていたようです。
ヨシフには兄が二人いましたが、ヨシフが幼いころ亡くなってしまいました。
父からの暴力、二人の兄との別れ。
そんなヨシフを、母はたっぷり愛情をかけて育てました。
ヨシフは貧しい家の出でしたが、頭脳明晰で成績優秀のため、神学学校に入学しました。
その神学学校在学中に、ヨシフの人生を一変させる出来事が起こります。
[talk name=”奈良”]ただしこの話は、後にスターリンが自らの生い立ちをドラマティックにさせるために、創作された可能性が高いです。[/talk]
ヨシフが13歳の時でした。
一人のジョージア人がロシア人により公開絞首刑を受けました。
ロシア人に逆らったという罪でした。
見せしめの処刑でした。
当時のジョージアはロシア帝国の支配下に置かれていました。
ロシア帝国の絶対的支配力により、ジョージアの伝統も文化も否定されました。
ジョージア語は禁止されロシア語を強要されるなど、厳しい日々を送りました。
神学者として日々勉強に励むヨシフには、世界の理不尽さはどうしても理解出来ませんでした。
なぜ神は支配する側とされる側をお作りになるのか。
なぜ貧しい者は一生貧しいのか。
なぜ弱きものは一生弱いのか。
悩み抜いた末、ヨシフがたどりついた答えは非常にシンプルなものでした。
「神などいない」
ヨシフの心にはそう刻まれていきました。
スターリンと社会主義運動
当時、世界は社会主義思想が蔓延していた頃です。
ごく一部の裕福な資本家だけが潤い、人としての幸せな暮らしすら許されない労働者達。
その労働者階級の人々を救おうとする運動。
それが社会主義運動です。
神など存在しないと確信したヨシフにとって、もはや神学学校に通う理由はありませんでした。
ヨシフは退学を決意しました。
その後、ヨシフは社会主義運動に合流していきます。
やがて運動は過激化し、ヨシフは逮捕されシベリアへ流刑(るけい)されます。
レーニンとの出会い
ヨシフは流刑地シベリアで、1冊の本と出会います。
その本に記されていたのはヨシフの志(こころざし)そのものでした。
著者はウラジミール・レーニン。
後のロシア革命の父であり、ソ連の初代最高指導者です。
レーニン(当時33歳)が目指すのはロシア皇帝を打倒し、労働者が主役の国を作ることでした。
一部の特権階級の人だけが良い思いをする社会ではなく、全ての人間が平等な労働者主体の社会です。
すなわち社会主義国家の建国です。
ヨシフは生涯をレーニンの理想に捧げる決意をしました。
鋼鉄の人、スターリン
レーニンの思想に強く共感したヨシフは、さらに行動が過激化して行きました。
相変わらずの社会主義運動の扇動で、幾度となく逮捕や流刑を繰り返すことになります。
ヨシフはこの頃から、スターリンと呼ばれるようになります。
先述したように、機関誌作成のために使用していたペンネームが、スターリンだったからです。
ロシア語でスターリンとは「鋼鉄の人」という意味です。
鋼鉄のように揺るがない強い意志を持つ者
スターリンの社会主義運動にかける情熱の表れでした。
そして、生涯をかけてスターリンが国民、そして自らをも苦しめた決意でもあったのです。
ロシア革命
1917年ロシアの首都ペトログラードでレーニン主導の下、武装蜂起が勃発しました。
労働者達の手により、とうとうロシア帝国が崩壊し世界初の社会主義政権が誕生します。
ソビエト共和国の誕生でした。
革命後のスターリンはレーニンの右腕として活躍して行きます。
ロシアでは、クラークと呼ばれる富裕層(ふゆうそう)を見せしめに処刑し、多量の穀物を奪いました。
一部の特権階級を排除し、労働者中心の社会を作る。
レーニンやスターリンは、社会主義国家への第一歩を踏み出したのです。
レーニンの死
スターリンはレーニンの右腕として着実に頭角を現していきました。
ところが思わぬ出来事が起こります。
レーニンの死です。
スターリンは1924年のレーニンの死後、共産党の主導権をめぐって党内幹部の実力者、トロツキーとはげしく対立するようになりました。
スターリンは一策を講じ、トロツキーの失脚を企てます。
故意にトロツキーに嘘の葬儀日を教えたのでした。
社会主義革命の父、レーニンの葬儀に参加できなかったトロツキーの信用は一気にガタ落ちし、スターリン一手に権力を握ることに成功します。
こうしてスターリンは共産党の最高指導者となったのです。
スターリンは、レーニンの正当な後継者の地位を手に入れたのでした。
五か年計画
世界初の社会主義革命(ロシア革命)を成功させたばかりのソ連。
長引く革命の影響もあり、ソ連の技術はヨーロッパ諸国の技術に比べ、相当な遅れをとっていました。
ヨーロッパ諸国に急ピッチで追いつこうとする計画、それが五か年計画です。
五か年計画とは、国家の計画経済の下、重工業や農業の生産性を向上させようというものです。
国の全ての土地や工場を国有化し、国家の管理の下経済活動が行われました。
そのためにソ連は世界恐慌の影響を受けずに済んだのです。
ヨーロッパの技術に追いつくためには、重工業を発展させなければなりません。
そのためには莫大な資金が必要でした。
スターリンの考えは、ヨーロッパとの50年の遅れを10年で取り戻そうというものでした。
そのためにはヨーロッパと肩を並べるくらいに重工業を発展させなければなりません。
交通網整備とエネルギーの確保のため、鉄道やダムを発展させる必要があります。
当然莫大な資金が必要となります。
そこでスターリンが考えたことは、穀物を輸出し、資金づくりを行うことです。
これが集団農場計画の始まりです。
そして、この政策が大きな悲劇へとつながっていくことになります。
頭脳明晰で神学学校に通うも、途中退学し社会主義運動に陶酔(とうすい)したスターリン
そしてレーニンの死により、ソ連の最高指導者への地位を手に入れます。
その地位を手に入れるために、同じ共産党の権力者トロツキーを失脚させたんですね。
最高指導者になってからは、ソ連の近代化を促すために五か年計画を実行します。
それが原因で大きな悲劇が生まれるんだよね。
一体どんな悲劇なんだろう。
次回鋼鉄の人、スターリン2では、スターリンの行った非道の数々、そしてスターリンの孤独について触れていきます。