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フランスの歴史①

フランスの誕生まで

476年西ローマ帝国が崩壊し、新たに台頭してきたのがフランク王国です。
フランク王国はローマ教皇の支持を得て、西ヨーロッパを支配する強大な王国に成長しました。

800年にはカール大帝がローマ教皇より戴冠(たいかん)し、フランク王国の皇帝となりました。
ローマ教皇から戴冠され皇帝を名乗ること。
それはすなわち、西ローマ帝国の皇帝であることを意味します。

カール大帝は栄誉ある西ローマ帝国の皇帝と同等の地位を手に入れたのでした。

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しかし、カール大帝の死後、広大になりすぎたフランク王国は分割相続され、西フランク、中央フランク、東フランクと分裂することとなります。

そのうちのひとつ西フランクが、後のフランス王国となります。

フランス王朝の歴史

王朝とは、その家系の君主(国王)が支配している時期を指す、時代区分です。

例えば、カロリング朝とは、カロリング家から出る君主(国王)が代々統治する王朝です。

カール大帝が統治していたフランク王国は、カロリング朝の王家でした。
そのカロリング朝で分割相続が起き、先ほどの3つのフランク王国に分裂します。
西フランク王国もしばらくはカロリング朝が続きますが、やがてカロリング家の血筋が断絶し、ユーグ・カペーがフランス王国を継ぐことになります。
こうして、カペー家がフランス王朝となります(カペー朝の誕生)
このカペー朝の誕生をもって、国名が西フランク王国からフランス王国へ移行したとする説があります。

※ちなみにカペー家のフィリップ4世の娘イザベルがイングランドのエドワード二世と結婚し、その息子エドワード3世がイングランド王を継承します。
実は、このことが原因で後述する百年戦争が勃発します。

その後カペー朝が断絶し、ヴァロワ朝→ブルボン朝と続きます。

ブルボン朝の時にフランス革命が発生(1789年)し、君主(国王)制が崩壊し、いったん共和制となります。

共和制とは、君主(国王)を持たない政治体制です。
国のトップを世襲ではない方法で選出する。それが共和制です。
例えば話し合いや選挙でトップを選出する方法です。
アメリカ合衆国の大統領制などが共和制の典型的な例です。

しかし、その後ナポレオンの登場により再びフランスは君主(国王)制へと変わって行きます。

その後フランスは共和制と君主制が交替交替で繰り返すことになります。

現在は第五共和制となっています。
第五共和政は大統領制をとっており、大統領に強大な権限を与えられています。
大統領と国民議会による政治体制となっています。

百年戦争の勃発

1337年から1453年にかけてフランスとイングランドの間に百年戦争が勃発します。

百年と表記されていますが、実質約120年続いた長期戦争です。

きっかけはカペー王朝が断絶し、ヴァロワ朝が王家を継いだことが発端でした。

カペー王朝のシャルル4世が跡継ぎがいないまま亡くなり、カペー家は断絶します。
そこで、シャルル4世とはいとこにあたるヴァロワ家のフィリップがフランス国王の跡を継ぎ、フィリップ6世となります。

ここで他にもフランスの王位を主張する者が現れました。
イングランド王妃のイザベラの息子であり、カペー王朝のフィリップ4世の孫にあたるイングランド王エドワード3世が、自分こそがフランス王位の継承者であると主張したのです。

イングランド王でありながらフランス王まで主張するとは、何とも贅沢な話です。
しかし、実際カペー朝が正統な血筋であるので、理に適った話なのです。

王位継承のために巻き起こした百年戦争。
戦争だけではなく黒死病(ペスト)も蔓延し、死者数両国合わせて300万人以上も出したと言われています。

百年戦争開戦当初はイングランドが優勢でフランスの首都パリを占領しました。
イングランドはフランス領の半分以上を占領しました。
フランスのシャルル皇太子(後のシャルル7世)はイングランドに窮地に追い詰められました。

しかし、ここでフランスに救世主が現れます。

ジャンヌ・ダルクです。

聖女ジャンヌ・ダルク

ジャンヌは12歳の時に天使の声を聞き、自らがフランスの救世主であると主張します。

その後、シノン城にて、フランスのシャルル皇太子(後のシャルル7世)に謁見(えっけん)することが叶いました。

ちなみにこの謁見の場ですが、シャルル皇太子は故意に偽の皇太子をジャンヌに会せようとしました。
ジャンヌが果たして本物の聖女であるか確認しようとしたのです。

するとジャンヌは偽の皇太子を即座に見破り、本物のシャルル皇太子にひざまずいたのです。

田舎育ち(ドンレミ村出身)のジャンヌがシャルル皇太子の顔を知る由もなかったでしょうから、この出来事を機にジャンヌは一気に聖女として、窮地のフランスを救う希望の星となったのです。

オルレアン包囲網

オルレアンはフランス北中部の町です。

イングランドの勢いは止まらず既にフランスの南西部を支配下に置いていました。

ここで一気に中央部へ侵攻をするために、イングランドはオルレアンを陥落させる必要がありました。
イングランドはオルレアンを完全包囲を果たし、陥落も時間の問題でした。
そのオルレアン救出に現れたのが聖女ジャンヌダルクです。

ジャンヌは軍勢を率い、膠着(こうちゃく)状態のオルレアン包囲網に一気に攻撃をしかけ、オルレアンの解放に成功します。
オルレアンに入城したジャンヌ・ダルクは大歓迎を受けました。

このオルレアンの救出劇により、フランスの運命は大きく変わります。
オルレアンが陥落すれば、フランス全土はイングランドに征服されていたかもしれないのです。

オルレアン救出後、勢いを増したフランスはイングランドから領土を取り戻していきました。
そして、シャルル皇太子は正式にフランス国王に就任し、シャルル7世となったのです。

宗教裁判

シャルル皇太子を正式にフランス国王にさせたジャンヌ・ダルクでしたが、その最期は悲劇的なものでした。

オルレアンを解放し、シャルル7世が国王になったとしても、パリはいまだイングランド軍に占領されたままでした。
パリを奪還するまでジャンヌは戦いを続けますが、フランスの内部は長らく続く戦いに疲れ果てていました。

フランス内部で足並みが揃わず、ジャンヌは戦いのさなかイギリス軍の捕虜となってしまいます。

そこでジャンヌは裁判にかけられますが、裁判とは名ばかりで一方的にジャンヌを処刑するための証言がなされました。
文字の読めないジャンヌにサインをさせた証書。
それは「火あぶりの刑を受け入れる」と言う内容でした。ジャンヌは無残にも火あぶりの刑に処せられます。
オルレアンとフランスを救った聖女ジャンヌダルクはあっけなく19年の短い生涯を終えました。
1431年のことでした。

ジャンヌダルクが亡くなった後、イングランド軍の勢いは増していきました。
しかし、それも長くは続かず、フランス軍はノルマンディー、ボルドーを奪回し、イングランドの大陸領はカレーを残すのみとなりました。

一時はフランスの大部分を占領したイングランド。
しかし、フランスに大部分を奪い返され、イングランドは大陸から撤退する形になりました。
このフランスの窮地を救ったジャンヌ・ダルクの功績は偉大なものです。

後に復権裁判にて、ジャンヌの名誉は回復されています。
こうして1453年、百年戦争は終結を迎えます。

フランス革命

ヴァロワ朝が断絶し、次にフランスの王朝となったのがブルボン家です。
ブルボン朝には有名なルイ14世やルイ16世の王妃(妻)のマリー・アントワネットがいます。
ヴェルサイユ宮殿なども有名です。

ian kelsallによるPixabayからの画像

そしてこのブルボン朝の時代に起きた世界史上重要な出来事、それがフランス革命です。

ブルボン朝は絶対王政(絶対君主制)が確立した王朝でもあります。
※絶対王政=国王が絶対的な権力を握った王政。ルイ14世の政治が代表的。
※立憲君主制とは国家の統治者として国王が存在するが、憲法や法規により国王の権力が制限されているものである。
日本も広い意味では立憲君主国家です。
君主(天皇)が国家元首として存在しますが、憲法により天皇の権限を制限しているからです。

アンシャンレジームとは階級制度のことです。
ブルボン朝の頃は、このアンシャンレジームが徹底されていました。

聖職者・貴族・平民と身分が分類され、人口の約90%は平民が占めていました。
聖職者や貴族は納税の義務がないため、全ての税金は平民たちが納めていました。
平民達の生活は非常に厳しいものでした。

また、1776年にはアメリカで独立戦争が始まりました。
アメリカ東部13州がイギリスからの独立を目指した戦争です。

この独立戦争にフランスが加担し、アメリカの独立を支援しました。
これらの戦費の支払いに国家財政も苦しい状況になります。

啓蒙思想(けいもうしそう)

啓蒙思想とは、人間のあり方についての新しい考え方です。

ロック 社会契約説と抵抗権

モンテスキュー 法の精神と三権分立

ルソー 社会契約説と人民主権説

を唱えました

こうした新しい人間のあり方を考える思想が当時の人々に広まっていきました。

そのような中、国家の財政難の危機に対処するために、国王は議会を開き聖職者や貴族にも課税しようとしました。
そこで啓蒙思想と相まって民衆に火が付き、暴動が起こります。

これがフランス革命です。1789年のことです。

フランス革命により、ルイ16世とマリーアントワネットはギロチンにかけられ処刑されます。
絶対王政はここで終わり、共和制へと移行していきます。

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