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2つの中国(後編)

中国国民党と中国共産党

成立したばかりの中華民国は非常に不安定でした。
特に袁世凱(えんせいがい)死去後は各地で軍人たちが争いあうことになります。
軍閥(支配地を持つ軍人たち)によりバラバラな状態の国内。
北京には軍閥政権が誕生しました。

中華民国の臨時政府と北京の軍閥政府の共存。
例えるならば、日本の南北朝時代のようなものです。
北朝と南朝にわかれ、天皇が2人存在した時代、当時の日本国内も非常に混乱を極めました。

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孫文は五・四運動をきっかけに、中華民国をひとつの国家にまとめあげようと行動を起こします。
そのためには、考えを共にする強力な政党を作る必要がありました。
こうしてできたのが、中国国民党です。
中国国民党による政府が国民政府です。

一方で、五・四運動の反政府・反日運動の中から成立していった政党があります。
これが中国共産党(1921年成立)です。

中国共産党創立大会に参加していたのが、後の中華人民共和国(現在の中国)建国の父、毛沢東(もうたくとう)です。

中国共産党

1917年にロシア革命が発生し、歴史上初めての社会主義国家、ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が誕生しました。
ソ連はロシア革命で成功した社会主義革命を、世界規模で成功させようとしました。
そのために作られた組織はコミンテルンと呼ばれます。
コミンテルンは、各地で社会主義運動を促進していきます。

このコミンテルン主導の下で行われたのが、中国共産党創立大会でした。
この中国共産党ですが、成立当時は57名という非常に小さな組織でした。

中国国民党中国共産党、この2つの政党は、時に協力し、時に争いあう関係でした。
結局、内戦の結果、中国共産党が国内での実権を握り、1949年に中華人民共和国が誕生します。

敗れた中国国民党は台湾に逃れ、1950年から現在に至るまで台湾を統治しています。

中国国民党を結成した孫文は中国共産党と協力し、国内の統一を目指しました(第一次国共合作)
中華民国内は、国民政府(中国国民党中国共産党)と北京の軍閥政府に分裂したままでした。

その後、孫文が死去し、中国国民党は蒋介石(しょうかいせき)が後を継ぎました。
蒋介石は1926年に北京軍閥政府を討伐するために北伐(ほくばつ)を開始します。

蒋介石は北京の軍閥政府を打倒し、列強が持つ国内権益の回復を目指しました。
満州の権益を日本から奪還することも、蒋介石にとっては大きな課題でした。

満州事変(まんしゅうじへん)

日本は満州での鉄道や鉱山の権益を持ち、大きな利益を得ていました。
満州には張作霖(ちょうさくりん)率いる軍閥がいました。
日本は張作霖を支援し、満州での権益をゆるぎないものにしていました。

ところが、北伐を開始した蒋介石率いる国民政府軍が北京に近づくと、日本は危機感を抱くようになります。
張作霖が敗北し、満州が蒋介石の手に落ちれば日本の立場も危うくなる。
そのように考えた関東軍(満州に駐留していた日本軍)は、ある行動に出ます。

なんと関東軍は、張作霖(ちょうさくりん)が乗った列車を爆破し殺害したのです。
蒋介石率いる国民政府軍のしわざに見せかけようとしたのです。
要は、関東軍としては、満州支配の口実を得たかったのです。

こうして関東軍は軍事行動を起こし、満州支配に乗り出します。
ところが、張作霖の息子の張学良(ちょうがくりょう)は、これを日本の自作自演だと気づきます。
気づいた張学良は、満州支配を国民政府に譲ってしまったのです。

張作霖爆殺事件(1928年)は、なんともお粗末な結果に終わってしまったのです。

その後、関東軍は柳条湖事件(1931年)を起こします。

柳条湖事件

柳条湖で南満州の鉄道が爆破される事件が発生しました。
当初、中国国民党によるしわざと伝えられましたが、実際はこれも関東軍による自作自演でした。

関東軍はこの事件を口実に満州を完全に占領し、満州国を建国しました。

柳条湖事件に端を発し、日本が満州全土を支配するに至った一連の事件を満州事変(まんしゅうじへん)と言います。

長征の開始

孫文が存命であったとき、中国国民党中国共産党は協力しあい、国内の統一を目指しました(第一次国共合作)
しかし、孫文の死後、蒋介石が中国国民党の指導者となると、状況は一変します。
元々大の共産党嫌いであったという蒋介石は、中国共産党に対し、弾圧を始めたのです。
蒋介石は、北伐と並行して中国共産党にも攻撃をしかけました(国共分裂)

中国国民党に弾圧された中国共産党は徐々に力を失っていきました。
中国共産党は全国内の共産主義者を江西省瑞金(ずいきん)に結集し、中華ソビエト共和国を樹立させ独自政権を発足させました。

しかし、ここでも中国国民党に攻め立てられ、中国共産党はこの地を去ることになります。
瑞金(ずいきん)から陝西省(せんせいしょう)延安(えんあん)まで、中国共産党中国国民党と交戦しながら移動していきます。
1934年から1936年まで、中国共産党は毎日歩き続けました。
はじめは10万人いた共産党員も、延安に到着するころには数千人まで減っていたそうです。
ただ歩き続けるだけではなく、中国国民党からの激しい弾圧もある中、約12500kmにも及ぶ大移動を果たしました。
これが長征(ちょうせい)と呼ばれる出来事です。

この長征の途上で、毛沢東の中国共産党指導者としての立場が確立します。

こうして中華民国国内は、国民政府(中国国民党)中華ソビエト共和国(中国共産党)、満州国(日本)の3国が分立する状態となりました。

第二次国共合作

国民政府(中国国民党)中華ソビエト共和国(中国共産党)、満州国(日本)の3国が分立すると、日本を国内から追い出すために国共合作を望む声があがりました。

こうして1936年に日中戦争が始まると、第二次国共合作が成立します。

対日本として成り立った国共合作でしたが、第二次世界大戦が終結するともろくも合作消滅となります。
結局争いあう運命にあった中国国民党中国共産党は、新たな内戦を始めていくのです。

2つの中国

1949年10月1日、毛沢東の宣言により中華人民共和国が成立します。
中華民国内の内戦は、中国共産党の勝利で幕を閉じたのでした。

長征では徹底的に中国国民党にたたきのめされた中国共産党でした。
中華人民共和国の建国は、中国共産党にとっては夢のような出来事だったはずです。

一方、敗北した中国国民党は台湾に逃れ中華民国の継続を表明しています。

互いが互いを認め合えず、互いが正当なる中国の政権であると主張している。
それが現在の中国と台湾の関係なのです。

蒋介石は1975年に亡くなりましたが、亡くなるまで大陸中国(中華人民共和国)への反抗を諦めませんでした。

諸外国も中国に対する反応は様々です。
大陸中国を唯一中国政府とみなす国、台湾を正当なる中国とみなす国など様々です。

台湾と中国。両者が歩み寄る日は、果たして今後あるのでしょうか。

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