中学生も学ぼうパレスチナ問題 - 中学生のための、よくわかる歴史

中学生も学ぼうパレスチナ問題

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物事を知るには、一方からの視点だけで見るのは非常に危険です

特に歴史というものは、常に勝者に都合よく創作されてきました

常に全体を俯瞰する目を持ち、正しい物の見方で歴史を学ばなければ安易に正義と悪を判断することになります

パレスチナ問題

これほどのパワーワードでありながら、その全容を知る人はあまりに少ない

それではこの問題の根本的解決にはいつになっても至らないでしょう

一体パレスチナでは何が起きているのか

そして何が問題なのか

なぜこの問題が起こっているのか

多くの人にこの記事が届き、真の解決の糸口を探るきっかけになっていただくことを切に願います

パレスチナとは

パレスチナ

とは地中海東岸一帯、主にシリア南部の地域を指します

パレスチナ情勢を理解する上で、ユダヤ人アラブ人というキーワードは非常に重要です

長らくこのパレスチナの地は、ユダヤ人とアラブ人との間で紛争状態にあります

パレスチナとは地名です

現在、パレスチナという国があるわけではなく、あくまでもパレスチナという名は、その地域一帯を指す呼び名です

パレスチナという名の由来は、かつてこの地で栄えたペニシテ人にあります

特にペリシテ人はユダヤ人の天敵だったことから、 アラブ側からすればうってつけの名前だったのでしょう

アラブ人は自ら住むこの一帯にユダヤ人の天敵の名前をつけることで、自分達が住まうべき土地であると強烈にアピールしたのでしょう

パレスチナ人とパレスチナ自治区

パレスチナ地域に住むアラブ人のことを特にパレスチナ人と呼びます

パレスチナ自治区とは、パレスチナ人自らが自治する地域のことです

パレスチナ自治区は具体的には、ヨルダン川西岸地区と地中海に面したガザ地区のことを言います

パレスチナを国家として認めている国もあれば認めていない国もあるため、パレスチナは正式な国扱いではなく、パレスチナ自治区、もしくはパレスチナ自治政府と呼ばれます

正式な国とはなんでしょう?

正式に国家として認められるためには3つの条件である領土、国民、政府の3つが揃う必要があります

日本でいえば、日本という明確な領土日本国民日本政府があるからこそ正式な国家、日本として認められています

パレスチナの場合、領土が非常に曖昧です

そのため、当面は自治区として制限されることになります

パレスチナ自治区が誕生した経緯

パレスチナ自治区が誕生した経緯は、1993年のオスロ合意です

イスラエル(ユダヤ人)とパレスチナ(アラブ人)で交わしたこの合意によって、パレスチナ自治区が誕生しました

本来は、この時点でアラブ人としては正式なパレスチナ国を建国したかったでしょうが、先の理由により自治区として見送られています

パレスチナの位置、名前の由来、そしてニュースでよく耳にする自治区

これらの基本情報を理解したところで、いよいよパレスチナでは一体何が起きているのか見ていきましょう

ユダヤ人の歴史

まずはパレスチナの現状を知る前に、ユダヤ人、そしてパレスチナの歴史を見ていきたいと思います

パレスチナの悲劇は、長い歴史の積み重ねの上にあります

まずはこのことを理解しなければ、パレスチナの現状を真に理解することは出来ません

約束の地カナン

はるか昔、パレスチナあたりの地域はカナンと呼ばれていました

およそ4000年前の話です

カナンの地は、かつて神がヘブライ人アブラハム

そなたの子孫にこの地を与えよう

と約束した地です

アブラハムの孫であるヤコブは、神との契約でイスラエルの名を与えられます

その後、その子孫たちはカナンの地に神との約束どおりヘブライ王国(イスラエル王国)を建国しました

やがて紀元前922年

ヘブライ王国(イスラエル王国)はやがて北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂します

このユダ王国のルーツがユダヤ人と呼ばれる人たちです

よって、ややこしい話ですが、ヘブライ人はのちのイスラエル人でありユダヤ人です

ここでは以降、ヘブライ人、イスラエル人、ユダヤ人をユダヤ人に統一表記していきます

この約束の地カナンの描写は、旧約聖書の創世記に描かれています

旧約聖書ユダヤ教の聖典です

ユダヤ人とは、ユダヤ教を信仰する者とも定義されるように、先ほどの定義を用いると日本人でもユダヤ教を信仰していれば、広義で言うユダヤ人ということになります

ユダヤ人からしてみれば、カナン、つまりパレスチナ一帯は神に与えられた約束の地であり、自国の領土と主張する正当性があると言えます

ただし、これはあくまでもユダヤ人の視点で見た解釈です

このあたりは以下の記事で詳しく解説しています

ユダヤ人の離散

ヘブライ王国(イスラエル王国)

は紀元前1003年頃、ダヴィデ王の時に首都エルサレムを建設しました

次のソロモン王の時にヘブライ王国(イスラエル王国)は最盛期を迎えました

しかし、ソロモン王の死後、ヘブライ王国(イスラエル王国)は南北に分裂してしまいます

北のイスラエル王国と南のユダ王国です

しかし、北のイスラエル王国は間も無く滅び、南のユダ王国も紀元前6世紀にはバビロニア王国に滅ぼされてしまいます

この時多くの住民がバビロニア王国に連行されました

バビロン捕囚という歴史的にも名高い出来事でした

ユダヤ人の離散はこの頃から始まります

エルサレムのユダヤ神殿

ヘブライ王国(イスラエル王国)

最盛期ソロモン王の頃、首都エルサレムにはソロモン神殿が建設されました

ヘブライ王国(イスラエル王国)の栄華を讃えた聖なる神殿であり、後に建設される神殿と区別するため、第一神殿と呼ばれます

後にヘブライ王国(イスラエル王国)イスラエル王国ユダ王国に分裂したあと、第一神殿は、バビロニア王国の侵攻により破壊されてしまいました(バビロン捕囚)

※ただし、第一神殿の実在性には懐疑的部分もあります

第二神殿

バビロニア王国に滅ぼされたユダ王国

しかし、バビロニア王国の後、アケメネス朝ペルシアがパレスチナ一帯を征服すると、離散していたユダヤ人達がエルサレムに再び帰還してきます

とは言え、実質的にはユダ王国の再建ではなく、あくまでもペルシアの支配下の中にありました

こうした中、ユダヤ人はエルサレムにかつて破壊された神殿を再建します

2つめの神殿なので、第二神殿と呼ばれ、この時のユダヤ教の体制を第二神殿体制と呼びます

ユダヤ人にとってカナン、つまりパレスチナ一帯は神に与えられた約束の地であり、その首都エルサレムは聖地そのものです

そこに神殿を構えることは大きな意義があったのです

紀元後1世紀、カナン、つまりパレスチナ地域は今度はローマ帝国の支配下となりました

そのような中誕生したのがイエス・キリストです

離散を余儀なくされ、他国の支配下に置かれていたユダヤ人にとって、イエス・キリストはまさに救世主(メシア)の君臨として大いに期待されました

旧約聖書に記されていたユダヤ人の救世主がとうとう現れたと、ユダヤ人達は歓喜しました

ところが、ユダヤ教の選民思想とイエス・キリストの思想は相いれず、結局はユダヤ人の逆鱗に触れイエス・キリストは処刑されてしまいます

イエス・キリストは十字架を背負わされエルサレム市街を歩きまわされた挙句、ゴルゴダの丘にて磔にされました

聖墳墓(せいふんぼ)教会にはキリストの墓があるとされており、そのことがきっかけで皮肉にも、ユダヤ人にとっての聖地エルサレムが、後のキリスト教の聖地にもなってしまったのです

その後、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人は反ローマ闘争を起こしますが、ことごとく鎮圧され、再度ユダヤ人は各地へと離散していくことになります

結果、ローマ帝国によって第二神殿が破壊されてしまいます

残った神殿の一部は嘆きの壁と呼ばれ、ユダヤ教徒が日常的に祈りをささげる場所となっています

首都エルサレム

エルサレムの始まりは、紀元前11世紀にヘブライ王国(イスラエル王国)が首都に定めたことから始まります

ダヴィデ王治世の時です

ヘブライ王国(イスラエル王国)は後に北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂したことは既に述べたとおりです

分裂後、エルサレムは300年以上ユダ王国の首都として栄えました

紀元前6世紀にユダヤ教が成立してからは、ユダヤ教の巡礼地としての意味合いも持つようになりました

その後、2世紀にローマ帝国進行によりユダヤ人たちは離散

こうした複雑な経緯があり、現在、イスラエル国は首都をエルサレムと主張していますが、国際社会の大多数(日本含む)には認められていません

そのため、多くの国の大使館はテルアビブにおかれています

混迷のエルサレム

ユダヤの聖地にキリストの聖地

それらがエルサレムに共存するようになりました

しかし、このエルサレム

やはり何か特別な土地柄なのでしょうか

さらなる混迷が待ち受けていました

預言者ムハンマド

ユダヤ教やキリスト教よりもだいぶ遅れをとりますが、アラビア半島に預言者ムハンマドが誕生し、イスラム教が急速に拡大していきます

拡大するイスラム勢力に、やがてパレスチナも呑み込まれ、とうとう首都エルサレムも征服されてしまいました

やがてムハンマドが死を迎えた時、天使が現れムハンマドをはるかエルサレムの上空まで連れていきそこで昇天したという話が広がりました

こうしてエルサレムにはムハンマドが昇天したとされる地に岩のドームが建設され、イスラム教徒の聖地となりました

聖地エルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教3つの聖地になったのです

パレスチナ、そして首都エルサレムはヘブライ王国から南北のイスラエル王国、ユダ王国、そしてバビロニア王国、アケメネス朝ペルシア、ローマ帝国、その後キリスト教の十字軍の支配下となり、13世紀頃にはイスラム国家の支配下となります

そして16世紀にこの地を支配したオスマントルコを経て第一次世界大戦に突入し、敗北

オスマントルコは解体

そこからパレスチナは列強によっていいように分割されていきます

パレスチナ、そしてエルサレムは長い歴史の間、時代に翻弄され、宗教的歴史的にも非常に複雑化してしまいました

複雑化するパレスチナ

宗教的側面だけ見ても、パレスチナをはじめエルサレムは非常に複雑な場所ということがおわかりいただけたでしょうか

ここにさらにユダヤ人、アラブ人、そして他国からの干渉という非常に厄介な問題が絡んできます

ユダヤ人はかねてより自分たちの土地はパレスチナにあると主張しながらも、なかなかそれを絶対的に手に入れることはできませんでした

手に入れては離散し、戻っては離散し

世界各地にユダヤ人が点在しているのは、こうした事情があるからです

そして、その問題に終止符を打とうとしたのが第二次世界大戦後のイスラエル国の建国でした

国連決議の下、ユダヤ人の国家としてパレスチナにイスラエル国の建国を認めたのです

ところがこれで解決には至りませんでした

先の聖地エルサレムの問題、何よりもパレスチナにいたアラブ人達が黙っていなかったからです

シオンの恋人たち

長年にわたりユダヤ人は各地に離散しては戻りを繰り返し、中には生涯を離散先で終えた人たちもいました

安住の地が欲しい

それこそがユダヤ人の願いでしたが叶いませんでした

東ヨーロッパのポーランド・リトアニアやその周辺はユダヤ人を保護してくれました

多くのユダヤ人はそこへ避難し金融業で特に財を成すことに成功しました

この金融業ですが、キリスト教徒が忌み嫌う職業でもあったため余計にキリスト教信者からの反ユダヤ感情が高まって行きました

ナチスドイツでユダヤ人に対するホロコースト(ユダヤ人への迫害)が行われたのも、これがひとつの遠因となっています

当時、ユダヤ人の全人口は100万人ほどでしたが、 その多くがポーランド・リトアニアで生活していました

やっと安住の地を手に入れたのもつかの間のことでした

ロシア、プロイセン、オーストリアポーランド・リトアニアはこの3つの国によって分割されてしまったのです

多くのユダヤ人がロシアの支配下に置かれることになります

ほどなくして、ロシア皇帝暗殺事件が発生します

運が悪いことに、実行犯の1人にユダヤ人がいたことから、 ユダヤ人は目の敵にされます

そして、ロシアがキリスト教信仰の方針を示したため、ユダヤ人の立場はますます危うくなっていきました

こうした中反ユダヤ感情が爆発、多くのユダヤ人は迫害を受けることになってしまいました

多くのユダヤ人が西ヨーロッパやアメリカに逃れていく中、一部のユダヤ人はパレスチナに戻っていきました

パレスチナに戻ったユダヤ人はシオンの恋人たちという組織を立ち上げました

シオンとはエルサレムにある丘のことです

シオンの恋人たちは祖国再建運動を声高に叫び、彼らの運動はやがてシオニズムと呼ばれるようになります

パレスチナとイギリス

1914年、第一次世界大戦が勃発しました当時、パレスチナ一帯を支配していたのはオスマン帝国ですオスマン帝国はドイツ、オーストリア、ブルガリアと共に中央同盟国の一員として参戦します対して連合国側はイギリス、フランス、ロシア、日本などです地中海沿岸一帯でのイギリスとオスマン帝国の戦闘では、オスマン帝国優勢で進んでいきますここでイギリスは思わぬ行動を取ります 3つの政治的な作戦を実行します

イギリスの策略

イギリスはまず、メッカの総督だったアラブ人に働きかけ、 彼にオスマン帝国への反乱を促したのです成功すれば、パレスチナにアラブ国家の建国を支援すると約束しましたところがもう一方では、ユダヤ人に対しパレスチナにユダヤ国家の建国を支援すると約束したのです

先述した通り、ユダヤ人の中には金融業で成功した資本家たちがいます

イギリスが苦しい戦況を戦い抜くにはユダヤ人の資金援助が必要不可欠であったため、苦肉の策で援助をこぎつけたのです

いずれにせよ、イギリスはオスマン帝国に勝利すればいい

そのために手段を選びませんでした

ただ、その手段があまりにも後先を考えていない内容だったのです

裏目に出たイギリスの策略

アラブ人にしてもユダヤ人にしても、パレスチナに自分たちの国を持つことは長年の夢でした

そのため、イギリスの誘いにはすんなり乗ってきます

しかし、この約束を反故にされればどれほど両者の怒りに歯止めが効かなくなるか

少し考えればわかるはずが、それでもイギリスは強硬します

さらにイギリスはフランスとまで密約を交わします

戦勝の暁には、フランスとイギリスでオスマン帝国の領土を分割し合うという密約です

とにかく勝てばいい

イギリスのしたたかな姿勢の現われでした

結局、大戦は連合国が勝利しました

オスマン帝国は解体され、 まずはイギリスとフランスがオスマン領を分け合うことになります

次に、パレスチナ地域、いわゆるヨルダン川の西側全域に約束通りにユダヤ国家建国に向けて準備を始めます

しかしながら、元々パレスチナに住んでいたイスラム教徒とキリスト教徒の猛反発を受けます

その数は実に80万人

元々パレスチナには8万人のユダヤ人も住んでいました

彼らはイギリスの支援を受け、ユダヤ国家建国を着々と進めていきます

シオニズムを謳い、祖国への帰還を待ち望んでいた多くのユダヤ人達がヨーロッパから移動してきました

当然黙っていなかったのが、イスラム教徒でありキリスト教徒であり、元からここに住むアラブ人たちです

アラブ人の国を作ると言いながら反故にしたイギリス

それどころかユダヤ国家の着手が始まり大量のユダヤ人が移動してくる

元々住んでいた人達からすればとうてい納得できる話ではありませんでした

アラブ人達はユダヤ人の移住を侵略と見なし、ユダヤ人虐殺が始まりました

しかし、さらに輪をかけてパレスチナにユダヤ人が流れ込む事態が発生します

ドイツでアドルフ・ヒトラーが首相になり、ナチスドイツによりユダヤ人の大虐殺が始まったのです

ユダヤ人は藁をもつかむ思いでパレスチナへと移動を始めたのです

パレスチナは混乱を極めていきます

 

ナチスドイツによるホロコースト

時は第二次世界大戦、ナチスドイツによるユダヤ人迫害が始まりました

ナチス党党首のヒトラーが首相となり、ナチズムという全体主義を貫くうえで、反ユダヤ人感情をいいように利用したのです

宗教上の問題、金融業を生業にする卑しき民族、アーリア人こそ最も優れた血統と謳い、ヒトラーのユダヤ人迫害は凄惨を極めました

ホロコーストと呼ばれる迫害

ゲットーと呼ばれる強制居住区に移され毒殺

多くのユダヤ人が命を落としました

祖国を持たず、ユダヤ人というだけで各地に離散させられ、それでも彼らにはシオニズムの灯が消えることはありませんでした

第一次世界大戦が終結し、オスマン帝国解体後、パレスチナで祖国ユダヤ王国の建国の噂を聞き、彼らはナチスから逃れパレスチナへと帰還していきます

しかし、中にはビザが発給されず、一転日本経由でアメリカへ逃れるユダヤ人も大勢いました

その際の出来事は、こちらの記事で詳しく紹介しています

多くのユダヤ人の命を救った日本人外交官の物語です

杉原千畝

こうしたユダヤ人の大量流入を受け

アラブ人はイギリス政府へユダヤ人入植の即時停止を求めました

アラブ人のデモは過激化し、イギリス人およびユダヤ人へ攻撃を開始しました

イギリスが自分で招いたこととは言え、事態を収拾させねばなりません

ところがお互いの妥協案を模索するうちに、さらに事態は悪化していきます

パレスチナの混乱を収拾せよ

混乱するパレスチナの事態を収拾するためにイギリスが出した解決案はこうです

首都であり聖地であるエルサレムはいずれにも属さず、イギリス統治下においたままパレスチナ地域を南北で分割しそれぞれの国家を作ろう

ところが、アラブ諸国にはこの案は受け入れられませんでした

アラブ人はパレスチナ分割やユダヤ国家の建国に一同反対しました

アラブ人からすれば、パレスチナには元々自分たちが先にいた

なぜそのような案を吞まなくてはならないのか、当然納得できない事だったのです

しかし、イギリス側は流ちょうなことを言っている場合ではありませんでした

第二次世界大戦の機運が高まる中、イギリスとしては地中海の支配権を維持することが最重要課題だったのです

地中海を奪われる=イラクからの石油輸入がストップすることになります

こうなるとさすがのイギリスも戦争どころではありません

イギリスとしてみれば、地中海支配権を守るためにアラブ諸国を味方に引き入れなくてはなりませんでした

こうしてイギリスは、パレスチナを南北に分割する案を破棄します

ユダヤ人移民には厳しい人数制限をかけ、10年以内にアラブとユダヤが共同統治する統一パレスチナ国家を作る方針を打ち出したのです

ある程度の譲歩を見せたイギリスに対し、アラブ側は一定の理解を示します

ところが今度は約束を反故されたとばかりにユダヤ人から猛反発を受けることになったのです

こうした中、第二次世界大戦が勃発します

第二次世界大戦その後

第二次世界大戦は、イギリス、フランス、アメリカの三国協商側の勝利に終わりました

しかし、パレスチナに関しては結局何も解決しないまま終戦を迎えました

アラブ側に忖度したことでしたが、ドイツから逃亡しようとしたユダヤ人の移動に制限をかけたことや約束を反故にしたことで、ユダヤ人の中の反イギリス心を高めました

戦後も、ユダヤ人のイギリス政府に対する反乱が続きました

とうとうイギリスはパレスチナに関わる諸問題に手を焼き、統治を放棄することになりました

イギリスはパレスチナに関わる問題の一切を、戦後誕生したばかりの国際連合(以下、国連)に委ねることにしたのです

UNSCOP

国連は、UNSCOPというパレスチナ問題特別委員会を立ち上げて検討しました

その結果、パレスチナ地域にユダヤ国家とアラブ国家の国境線を引き、首都エルサレムは特別な国際管理都市にすることを提案しました

国連総会の投票で、 賛成票がイスラム諸国の反対票を上回り採択されました

当然アラブ人側は納得できるはずがありません

繰り返すように、アラブ側からすればイギリスが約束を反故にしたばかりではなく、元々自分たちが暮らしていた地にユダヤ人が移動してきたのです

さらに彼らは戦争で負けたわけでもない

それなのに強制的にパレスチナを分割され、首都であり聖地であるエルサレムが国際管理都市になってしまう

とうてい呑み込める話ではありませんでした

逆に、ユダヤ人側からすれば国際的に自国の建国を認められたことになり、パレスチナ全域ではないにせよ一応の成果がありました

ユダヤ人にとっては、シオニズムはここに完結したと言えるでしょう

この両者の温度差は激しく、世界大戦終了後間もないうちにアラブ対ユダヤという戦闘状態に突入していきます

アラブ解放軍の組織

第二次世界大戦は、アラブ対ユダヤという負債を残し集結しました

さらに国連決議では、ユダヤ側有利に話がまとまったためにアラブ側から猛反発が起こりました

両者がぶつかるのは時間の問題でした

小競り合いどころかパレスチナ地域一帯が紛争状態になりました

パレスチナのユダヤ人たちは各地に点在するユダヤ人資本家達から資金提供を受け、軍事の拡充を図っていきます

こうした動きを受け、アラブ人側は反シオニズム組織のアラブ解放軍が組織し、エルサレムにいたユダヤ人10万人を囲い込む行動に出ました

混乱を極めていくパレスチナ地域

混在するアラブ人とユダヤ人

ユダヤ人はエルサレムに閉じ込められたユダヤ人を解放すべく、周囲のアラブ人が住む地域を攻撃しました

こうした混乱の中、とうとうイスラエルが国家として認められるときがやってきます

イスラエル建国

第二次世界大戦後の1947年、国際連合においてパレスチナ分割決議が行われました

パレスチナの土地はユダヤ国家とアラブ国家、そして国連管理下の国際都市エルサレムに分割されました

当時、パレスチナの人口の約3分の2がアラブ人で、3分の1がユダヤ人でした

アラブ人の方が人数が多かったにもかかわらず、分割案ではパレスチナの半分以上がユダヤ人所有となっていました。

当然アラブ人は分割案に猛反発

ユダヤ人としてはこれを大歓迎

お互いに折り合いがつかない中1948年5月14日、 テルアビブにおいて、 イスラエル国の建国が宣言され、同時にイギリスの委任統治が終了しました

イギリスの統治が終わった

つまり、イギリスの影響力がなくなったので、分割案に納得がいかないアラブ諸国はここぞとばかりにイスラエル国に宣戦します

中東戦争

イスラエル国の建国とイギリス統治の終了

それがユダヤとアラブの対立を激化させ、イスラエル国とアラブ諸国は、1948年から1973年にかけて4度にわたり戦争を起こします

総じて中東戦争といいます

イスラエル建国を良しとしないアラブ連盟加盟のシリア、レバノン、ヨルダン、イラク、エジプトの軍が一斉蜂起し戦争となりました

別名パレスチナ戦争とも言われるこの戦争がきっかけとなり計4回にわたり戦闘状態になりました

これら4回にわたる戦争を第一次〜四次中東戦争と言います

第一次中東戦争の結果、イスラエルは国連分割案よりも広い土地を占領したまま、独立を果たすことになります

一方で、国連分割案ではパレスチナ人地区とされたヨルダン川西部はヨルダンが獲得、ガザ地区をエジプトが獲得

結果、多くのアラブ人が土地を追い出されて難民となってしまったのです

パレスチナ難民の発生です

第二次中東戦争

1956年、エジプトのナセル大統領がスエズ運河の国有化を宣言しました

ナセルはナイル川上流にアスワン=ハイダムの建設を予定していたのですが、その費用の援助をアメリカが断ったことを受け、建設資金の財源とするために国有化を宣言したのです

かつてスエズ運河を買収したイギリスはこれに反発

フランス・イスラエルを誘ってエジプトと戦争を起こします

第二次中東戦争です

エジプトは劣勢に立たされましたが、国連が即時停戦を決議し、また国際世論もエジプトを支持したことで、戦争は停戦となりました

第三次中東戦争

第三次中東戦争の前、1964年、アラブ連盟はイスラエルの支配下にあるパレスチナを解放することを目的とした組織、 パレスチナ解放機構、通称PLOを創設しました

武力闘争によるパレスチナ解放を宣言し、 テロ攻撃を始めます

断固として国連決議に反抗したのです

結果的にこの戦争ではイスラエルの大勝利に終わります

アラブ側は全面戦争ではなく、間接的にイスラエルを疲弊させる作戦に出ます

北部のガリラヤ湖からの引き込み水が、 イスラエルの農業の要となっていることから、水の流れを阻止する作戦に出ました

しかし、これにイスラエルが猛反撃

緊張が高まる中、 エジプトのナセルはイスラエルとの国境に軍隊を展開しました

するとイスラエルはエジプトに侵攻を開始します

さらにエジプトの同盟国であるシリアとヨルダンにも報復として侵攻しました

結果、わずか6日間の戦いで、イスラエルが圧勝します

イスラエルはシナイ半島、ゴラン高原、ヨルダン川西岸地区を占領しました

この占領に対して、国連が占領地からの撤退を求めてもイスラエルは応じません

イスラエルにとってはエルサレム全域を含め広大な領土を得た大勝利となったのです

第四次中東戦争

1968年、アラブ諸国の石油産国はアラブ石油輸出国機構(OAPEC)を結成しました

1973年には、エジプトとシリアがイスラエルに先制攻撃をしかけて第4次中東戦争が始まりました

イスラエルが反撃に転じると、アラブ諸国は石油戦略を発動しました

OAPECはイスラエルを支援する国々への石油輸出を停止し、OPEC(石油輸出国機構は原油価格を値上げしました。

アラブ諸国の石油戦略を受け、イスラエルを支援する欧米や日本は大きな打撃を受けました

これを 第1次石油危機(オイル=ショック)と呼びます

PLOとハマス

先述した第一次中東戦争の結果、パレスチナ難民となった者たちの中には、隣国のヨルダンなどに逃れる者がいました

難民たちの中から、パレスチナ国家の建設を目指すアラブ人の国際機関としてパレスチナ解放機構(PLO)が発足しました

PLOはいくつかの団体で構成されますが、アラファトが率いるファタハは特に武力でパレスチナを奪還しようとする武闘派組織でした

第三次中東戦争の敗北後、パレスチナの大半をイスラエルに奪われた後、アラファトはPLOの議長に就任、ゲリラ戦術によってイスラエルに対抗しパレスチナの解放を目指す過激な路線へと方針変換します

アラファトは、 避難先のヨルダンにPLOの拠点を構えていました

他国に居候しながらパレスチナをアラブ人に解放するための拠点を持っているイメージです

イスラエルへの攻撃を成功させたアラファトはパレスチナの英雄となり、 PLOも勢力を拡大しました

しかし、PLOの拡大はあくまでも避難先のヨルダン内のことです

ヨルダン自体を脅かす存在規模になりつつあったPLOは、拠点国ヨルダンと利害衝突するようになりました

とうとうアラファトはヨルダン王を打倒しようとします

皮肉にもアラブ人同士によるヨルダン内戦が発生してしまいました

ハマス台頭

ヨルダン王はアラファトを追放し、 国内のパレスチナ難民キャンプを攻撃しはじめました

アラファトはレバノンに逃れた後、 ヨルダンへの報復もしつつ、 イスラエルへのさらなる武力闘争、 そして世界各地でのテロを行います

しかし、イスラエルに反撃を受け、逆にレバノンから撤退を余儀なくされたアラファトは、本拠地をチュニジアへ移します

パレスチナから遠く離れたことで、かつてのテロ攻撃を継続していくことは困難になりました

こうしてアラファトが率いるファタハは、イスラエルとの和平、そして共存の道を選択肢として掲げるようになりました

しかし、これを良しとしない若い世代が台頭するようになります

きっかけはインティファーダでした

インティファーダとは、イスラエルに対するパレスチナ住民の大規模な蜂起のことです

こうして台頭してきたのがハマスです

ハマスとは何者か

2023年10月7日、 ハマスイスラエルへの大規模攻撃を始めました

ハマスイスラム原理主義を思想としており、テロ組織として認定されている過激派組織です

ハマスが設立されたのは1987年12月です
第一次インティファーダを受け、ガザ地区で社会福祉活動を行っていた団体によって組織されました

ハマスはPLOと対立を深めていきます

パレスチナ国家の成立を目指す両者でしたが、考え方の相違が生じたためです

PLOは穏健姿勢を取り、イスラエルとの和解やイスラエルと共存という形でパレスチナ国家の成立を目指していましたが、ハマスはその姿勢に反発します

ハマスはイスラエルに徹底交戦し、パレスチナ国家の樹立を目指します

自爆攻撃も辞さないその姿勢は、とても前身が社会福祉団体とは思えないほどの変容です

その後、インティファーダが発生するごとにハマスは自爆攻撃を実行しました

ハマスはテロ集団、テロ組織として認知され、イスラエルから強く非難されます

しかしながら、ハマスは過激なテロ集団という一面だけではなく、政治的な側面も持つ集団です

パレスチナの自治政府で2回目の選挙が行われた際には、ハマスの政党が過半数の議席を取っています

自治区の住民たちも、イスラエルには徹底抗戦すべしという風潮が占めていることの現れでしょう

孤立するハマスとガザ地区

2006年の選挙でハマス勝利後、国際社会からハマス主導のパレスチナ自治政府に対しては支援を与えることができない

という声が上がりました

抗戦手段としてテロ行為を主としている以上当然の反応です

選挙でハマスに負けたPLOの主グループ、ファタハが、これを機にハマス追放を画策します

この結果2007年6月、パレスチナのヨルダン川西岸地区ではハマスが排除されファタハが実効支配

ところが一方で、ガザ地区では逆にハマスがファタハの勢力を排除し実効支配を始めました

ガザ地区はこれ以降、イスラエルから完全封鎖されていきます

イスラエルとしては、テロ組織をガザ地区に封じることで、国民と領土の安全を確保したのです

イスラエル及び国際社会からテロ集団と見なされて孤立し、経済封鎖を受けることとなったハマスとガザ地区

イスラエルは、2008年にガザ地区のハマスを壊滅させるとしてガザ地区を空爆、それに対してハマスもロケット弾で反撃し地上戦争に突入しました

いわゆるガザ戦争です

今日のイスラエル、パレスチナ

今日、イスラエル・パレスチナ問題は、 複雑さが以前にも増して、まさに八方塞がりという状況です

多くの問題が解決していません

今、こうしている間にもイスラエルとハマスとの間では戦闘が続いています

ガザ地区は特に子供が多い地域です

ハマスによる出国制限や若年での結婚、高い出生率が原因と言われています

そのガザ地区では一日に子供が100人以上戦争の犠牲になることもあります

同じ空の下生まれた子供が、物心ついた時には瓦礫や爆発音の中にいる

それが当たり前となっている日常

こうした問題に、現状打つ手なし、手詰まり状態なのです

難民問題、聖地エルサレム問題、人道支援が行き届かない壊滅状態のガザ地区

かたやアラブ側には2024年、大国イランが支援表明を出し、イスラエルとの戦闘状況はさらに激化していきそうです

この問題は、遠く離れた私たち日本人には無関係なのでしょうか?

少しでもパレスチナの惨状を理解し、関心を抱いていただきたいと思います

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ならぼん
ならぼん
歴史大好き
歴史が好きすぎて日々の仕事よりもブログの更新ばかり考えています。現在世界で起こっている出来事は、すべて過去の遺物です。良くも悪くもその遺物の中で私たちは生きています。歴史を1本の線で捉えることができたとき、私たちは今何をすべきかが見えてきます。中学生の皆さん、歴史を勉強だと思わずに味わい尽くしましょう。その一助となるためにこのサイトを立ち上げました。ひとりひとりの思いが集まれば、世界は必ず変わります。みんなが安心して暮らせる世界を作っていきましょう。 管理人 ならぼん 身分 しがないサラリーマン 大好きなキャラ 野原ひろし 中学教員免許保持者
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