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イギリスの歴史①

イギリスとは何か

イギリスはひとつの国家として捉えがちですが、実は4つの国家の連合で成立している連合国家です。
構成国はイングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つです。

これら4つの国家の連合、それがイギリスです。

イギリスは日本史を学ぶ上でとても重要な国です。
実際に幕末には薩摩藩が一戦交えていますし、明治時代には日英同盟が結ばれています。
さらには、イギリスから始まった産業革命により、日本は列強侵略の危機にさらされました。
しかしその危機がきっかけで、日本も近代化への一歩を踏み出すことになりました。

イギリスはグレートブリテン島と呼ばれる島国です。
言うなれば日本と同様の島国です。

同じ島国でも国家としての発展のスピードは全く違いました。
特に18世紀に入ってからは国内の革命により議会制度が確立します。
この議会制度は、現代における議院内閣制や政党政治の基盤となるものでした。

さらにその後、イギリス国内では産業革命が起こります。

特に蒸気機関の発明は、従来の手工業から機械式工業への移行を成功させ、商品の大量生産を可能にしました。
蒸気機関の発明により蒸気機関車や蒸気船も主要な乗り物となり、物資や人の輸送に革命的な変化をもたらしました。
1853年に浦賀に来航したペリーの黒船も蒸気船です。

イギリスは鉄道の発祥地でもあります。
蒸気機関車により各地の炭鉱から大量に石炭を運搬することにも成功しました。

当時の蒸気機関にとって、石炭は貴重な燃料だったのです。

同じ島国でありながら日本とイギリスでは近代化への進み方が全く違いました。

当時の日本は同じ島国でも鎖国体制の真っただ中です。
同じ島国であっても国力の差が大きく開いてしまったのは致し方ないことです。

同じ島国であるイギリスがどのような歩みで発展し、今日に至っているのか。
日本の歴史と比較しながら見てみるのも面白いと思います。

それでは、まずはイギリスと言う国のおこりから見ていきましょう。

イングランドの誕生

遡ること紀元前、ケルト人と呼ばれる中央アジアの民族がイングランドへ移民してきました。
その後、イングランドはローマ帝国の侵入を受けることになり、一時はローマ帝国の支配下に置かれました。
ところが西暦400年代に西ヨーロッパに衝撃的な出来事が起こります。
西ローマ帝国の滅亡です。

原因はゲルマン民族の大移動により、西ローマ帝国内も大混乱を起こしたからです。
そのゲルマン民族の大移動は、遠く北のグレートブリテン島にまで及びました。
グレートブリテン島に侵入したのはアングロ・サクソン人と呼ばれるゲルマン民族です。

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その後グレートブリテン島は7つの王国に別れ、グレートブリテン島内の覇権を争います。
(七王国時代)

七王国はウェセックスにより829年に統一されイングランドとしてのひとつの国家の形ができあがりました。

しかし、当時はヴァイキングのデーン人により、たびたびブリテン島は侵略の危機にさらされました。
イングランドは一度デーン人により支配を受けましたが、再度アングロサクソン人により奪い返されます。

ノルマン朝

フランスの北部にノルマンディーと呼ばれる地があります。
※第二次大戦中、連合国がドイツ軍のパリ占領を解放するために行ったフランス本土上陸作戦も、このノルマンディーの地でした。
(ノルマンディー上陸作戦)

ゲルマン民族の一派であるノルマン人は、フランス(当時の西フランク)北部に侵入してきました。
ノルマン人はその地を領土とすることを認められます(フランス領ノルマンディーの誕生)
その後ノルマン人達は正式にフランス王家の家臣として認められます(ノルマンディー公の誕生)

このノルマンディー公国がグレートブリテン島に侵入し、アングロサクソンを滅ぼしました。

こうしてノルマンディー公国がイングランドを支配することになり、ノルマン朝が誕生します(ウィリアム1世)

さて、ここで注意しておきたいことがあります。
ノルマンディー公国は本来はフランス国王の家臣です。
ノルマンディー公国のウィリアム1世はイングランド国王でありながらも、フランス国王の家臣であると言う微妙な関係になりました。
これが後の百年戦争の原因のひとつとなってしまいます。

後の欧米列強筆頭のイギリスですが、その始まりの歴史は意外なことにフランスの臣下という形で始まりました。

プランタジネット朝

やがて1154年になるとイングランドはノルマン朝からプランタジネット朝となります(ヘンリー2世)

ここで歴史的に有名な王、ジョン王が登場します。

ノルマンディー公時代のフランス領をめぐりジョン王はフランス諸侯と対立します。
イングランドとしてみればフランス国内にイングランド領がある状態です。
フランス側からしてみれば、自国内に他国の領土がある。
フランスとしてみれば非常に厄介な状態でした。
しかし、ジョン王はフランスとの戦いにことごとく負けてしまいます。

結果として、ジョン王はフランス内にあるイングランド領土をほぼ失うことになります。

さらにジョン王はローマ教皇と対立し、教会から破門されると言う大失態をおかします。
※カトリック教会の総本山から破門されることは、周囲のキリスト・カトリック国をことごとく敵にすることと同じです。

その後、ジョン王は教皇に謝罪し許されます。
フランス国内の領土を奪われ、教皇にも破門される。
なかなかこれほど一代の王の時代に失態を犯す王も珍しいものです。
ジョン王は国内から痛烈に批判されます。

マグナカルタ

1215年になると、イングランドの諸侯たちは、王権の制限と諸侯の権利を認めさせる大憲章をジョン王に提出しました。
この大憲章はマグナカルタと呼ばれます。

「王の権利を制限する」
実はこれこそがこの後に展開して行くイギリスの歴史にとって重要なキーワードになります。

イギリスの歴史は「王に絶対的に権力がある絶対王政」と「王政に制限をかけ、法で国を治める立憲君主制」との戦いの歴史でもあります。
時には歴史的な革命を経て、そして多大な人命犠牲を払いながらイギリスが歩んだ近代化。

そこにはこのマグナカルタの存在は欠かせません。
「王政を制限し国民の権利を守る」
その根拠はこのマグナカルタ、そして後に発布される権利請願や権利章典に見出すことが出来ます。

ジョン王は大憲章と呼ばれるマグナカルタに署名しました。
国内の批判を抑えようとし、諸侯達と和解するための策だったとする説もありますが、国王が自らの権利を制限することを認めたこの署名は、歴史的に見ても、イギリス近代化への大きな一歩となったのです。

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