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各地に伝わる牛若丸伝説

鞍馬山天狗(くらまやまてんぐ)

平治の乱で源氏が敗北した際、幼い頼朝は伊豆に流されました。
赤子だった牛若丸は将来僧になると言う約束の元、鞍馬山の寺に預けられました。

鞍馬山と言うとピンと来る方もいるかと思いますが、鞍馬山は天狗伝説が有名です。
鞍馬山は天狗が住む聖地とされ、京都最強のパワースポットでもあります。

牛若丸は鞍馬寺で出家のための修行をするはずが、源氏の血が騒ぎたてたのか、コッソリ一人隠れては武芸の稽古に励むのでした。

そこに現れたのは一人の山伏。

山伏は、牛若丸の姿を見て奥州藤原氏の元へと導きます。

一説によればその山伏は元源氏武士。
源氏の再興を願い、牛若丸をコッソリ奥州に導き、来るべき源氏旗揚げの準備をさせたと言うもの。

しかし、もうひとつ、面白い説があり、その山伏は実は鞍馬山の天狗と言う話です。

牛若丸のあまりの熱心さに、天狗は牛若丸に取り憑いてしまったという伝説です。

まさかとは思いますが、牛若丸に関してはこんなエピソードがあります。

平氏滅亡のきっかけとなる壇之浦の戦いは、小舟を並べた洋上決戦でした。

海上戦は平氏の得意とするもの。いかに追い詰められた平氏と言えど、簡単に倒せる相手ではありません。

そこで牛若丸は舟から舟へと飛び移り、平氏を翻弄し次々に切り倒していったと言うもの。

しかしこれは実際に検証されたこともありますが、どれほど脚力に自信があるアスリートでも揺れる舟、そして鎧兜(よろいかぶと)の重量の中、牛若丸が取ったであろう行動と同じ動きをすることは、ほぼ不可能との結論に達しました。

実はこれは牛若丸に憑いた天狗の力だと言う説があります。
実際天狗は姿を消したり、空を飛ぶ術を使います。

幼いころから鞍馬寺に住み、修行を続けた牛若丸。

天狗と出会う機会は多々あったのではないでしょうか。

天才的な牛若丸の身体能力は、実は天狗から授かったものかもしれません。

武蔵坊弁慶

源義経と言えば、武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)を思う方も多いはずです。
弁慶は比叡山出身の僧兵で怪力の持ち主でした。
ある時、あまりの乱暴者ゆえ、寺を追い出された弁慶は、京の都でも暴れまわります。

都で1000本の刀を奪い取る目標に、通りゆく人と決闘しては、999本の太刀を手にいれました。
あと1本と言うところで五条大橋で出会った男。それが牛若丸でした。
牛若丸は笛を吹きながら橋を渡っていると、弁慶に襲われました。
牛若丸はヒョイヒョイと飛び回り、橋の欄干(らんかん)に飛び乗っては弁慶の太刀裁きを見事にかわしたのです。
このあたりは、先述の天狗伝説にも通ずるところがあります。

返り討ちにあった弁慶は、その後牛若丸に仕え行動を共にします。

弁慶は生涯を牛若丸と共にします。

平氏との戦いも、牛若丸(その時点では源義経)の側で戦い、見事源氏の勝利へ貢献しています。

そんな折、義経の平泉への逃亡劇が始まります。
平氏滅亡後、兄頼朝と対立した義経が奥州藤原氏を頼って落ち延びようとしたのです。

義経たちは山伏に変装し、北陸から岩手の平泉へ向かいます。

そこでとうとう頼朝の家来に見つかり行く手を止められます。

家来は義経ではないかと気付きます。そこで弁慶の決死の機転が生まれます。

弁慶は義経に向かい言いました。
「お前の心のスキがあるからこのように疑われてしまうのだ。恥を知れ!修行が足りない!」
と叫び杖で何度も何度も義経を殴ったのです。

この時代に、主君に対しこのような横暴を働く者はいない。そんな思いで弁慶は必死に演技したのです。
義経を無事に平泉まで送り届けるまでは死ねない。弁慶の忠実な心の現れでした。

頼朝の家来は薄々気付いてはいたそうですが、余りの主君を思う弁慶の思いに圧倒され、その場を通してしまったと言うお話しです。
この話はとても有名で、歌舞伎の舞台にも登場するシーンです。

弁慶の機転で義経一行は無事に平泉に入ります。
しかし、義経たちにとって不幸が起こります。
藤原秀衡が亡くなるのです。

その後を継いだ藤原泰衡は頼朝の圧力に負け、義経の屋敷に攻め込みました。
結果、義経は自害し亡くなりました。

この際の弁慶の主君義経を守る姿は後世まで伝えられています。
義経は屋敷に火をつけ、自害しました。
弁慶は、義経の髪一本さえも敵に渡さぬと屋敷を死守します。

その際、体には無数の矢を受けましたが、立ったまま絶命したとのことです。

義経を思う弁慶。後世まで語り継がれる伝説です。

チンギス・ハン伝説

元寇(げんこう)とは中国の王朝である元(げん)が日本に襲来した事件です。
1274年(文永の役)1281年(弘安の役)と2度襲来しています。

元(げん)は元々はモンゴル帝国です。モンゴル帝国の始祖はチンギス・ハンです。

実はこのチンギス・ハンが源義経ではないかと言う伝説があるのです。

源頼朝が奥州藤原氏の館を攻め、源義経は自害に追い込まれたと伝わっていますが、実は密かに義経は脱出し、北海道経由で中国大陸に渡り、チンギス・ハンを名乗りモンゴル帝国を築いたと言うものです。

義経は兄頼朝へ復讐するために、モンゴル帝国を築き、それを孫の代でいよいよ実行しました。
それが元寇です。

チンギス・ハンの孫、フビライ・ハンが鎌倉幕府を滅ぼすために元寇を起こしたと言うものです。

ストーリー的には面白いですが、これは完全に創作話とされています。

各地に伝わる牛若丸伝説。

これはいかに牛若丸が人気者であったかの表れでしょう。

源氏の遺児として壮絶な人生を歩み、最期は無念の死を遂げる義経。

後世の人達は、義経に心の中でいつまでも生きていてほしいと願ったのです。

こうして生まれたのが、牛若丸伝説です。