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よくわかるドイツの歴史(後編) 

宗教改革とプロイセン公国

前編を読み解くキーポイントは、ヨーロッパを宗教面で捉えることとお伝えしました。
特にキリスト教と異教徒との関係性で見ることにより、プロイセン誕生の経緯が理解しやすくなります。

後編もやはり宗教面から捉えていくと理解しやすくなります。
しかし今度はキリスト教の内面から見ていく必要があります。

キリスト教の新旧派の対立、カトリックとプロテスタントの争い宗教改革(1517年)を中心に見ていくとわかりやすいはずです。

さて、一度プロイセンの場所とドイツ騎士団についておさらいしましょう。
ドイツの統一、そしてドイツ帝国建国の立役者プロイセン

バルト海に面した現在のポーランド海岸一帯、その地はプロイセンと呼ばれました。

ドイツ騎士団が移住してきたことにより、このプロイセンが大きくヨーロッパ、やがて世界の命運を変えることになります。
プロイセン国家の始まりであり、ドイツ帝国の始まりでした。

ドイツ騎士団は元々、聖地エルサレム奪還、異教徒からの防衛などの目的で設立されたカトリック修道会の騎士たちです。
言わばローマカトリック教会教皇、神聖ローマ帝国皇帝の命で動く騎士たちです。

同じキリスト教国のポーランド国王の要請で異教徒を討伐し、プロイセンの地を得たのがドイツ騎士団です。

ところが宗教改革でキリスト教が新旧両派に分裂してしまったことにより、ドイツ騎士団はある決断に迫られることになりました。
ドイツ騎士団の内部に新派のプロテスタントを信仰する者が増加し、カトリックかプロテスタントの決断を迫られることになったのです。

結果的に腐敗したカトリックとローマ教会の内情を知り、ドイツ騎士団はローマ教皇と決裂します。
こうしてドイツ騎士団はプロテスタント派(ルター派)となります。

初めはただの地名にしかすぎなかったプロイセン。
プロイセンは宗教改革の結果、主国であるポーランドとともにプロテスタント派(ルター派)となります。
こうしてプロイセンはただの地名から1525年にプロイセン公国となります。

公国とは、一応は独立した国家なのですが、いずれかの王国に属す従属国家です。
プロイセン公国はポーランド王国に属する国なのです。

ポーランドやプロイセン公国はプロテスタント(ルター派)であり、カトリック派の神聖ローマ帝国とは敵対していくことになるのです。
そして、争いはそこだけにとどまりません。
カトリックとプロテスタントに分裂したキリスト教世界は、のちに宗教戦争と呼ばれる国際戦争へと発展していくことになります。

プロイセンの躍進


少しややこしい話になります。
ドイツ騎士団の団長は、神聖ローマ帝国内の、とある選帝侯と血がつながる間柄でした。
※選帝侯とは、神聖ローマ帝国皇帝を選挙で選ぶ権利を持つ諸侯のことで、帝国内に存在する諸侯たちの中でも、特に権力がある諸侯のことです。
つまり、神聖ローマ帝国の一部を支配している選帝侯と、プロイセン公国は親戚関係にあるということです。

1618年、その選帝侯とプロイセン公国は連合国家となりました。
実は、プロイセン公国内で、跡継ぎとなる男子が途絶えてしまったことにより、選帝侯家がプロイセン公国を継承したことになったのです。
こうしてプロイセン公国は、神聖ローマ帝国内にも領土を持つことになったのです。
(選帝侯家がプロイセンを手にしたという見方のほうが妥当ですが)

三十年戦争

1618年は、世界史的にも重要な年です。
三十年戦争勃発の年です。

三十年戦争

キリスト教内部の争い。すなわちカトリック対プロテスタントの争いが三十年戦争です。
三十年戦争の特色は、神聖ローマ帝国内のカトリック派とプロテスタント派の争いが、ヨーロッパ各国を巻き込む国際戦争まで発展したことです。
国家レベルで言えば、フランスやデンマークなどがプロテスタント。
スペインなどがカトリック派になります。

ヨーロッパにキリスト教世界が広がっていた以上、2派にわかれた勢力が争えば、大規模な戦争に発展するのは当然のことでした。
最大で最後と言われたこの宗教戦争は1648年に集結します。

この戦争により、特に注目したいのは神聖ローマ帝国の実質的な解体です。

神聖ローマ帝国内の約300の領邦国家は、それぞれが独立した主権国家であると認められました。
となれば、もはや神聖ローマ帝国が存続する理由もなくなったのです。
※ただし、依然皇帝は存続したことから、形だけの神聖ローマ帝国は存続することになります。

さて、三十年戦争後のプロイセン公国の動きを見てみましょう。
プロイセン公国もまた、主権国家としての地位を獲得し、1660年にポーランドからの独立を果たすことになります。
そして1701年にはプロイセン王国となり、首都をベルリンに構えることになります。

三十年戦争はヨーロッパ各国の明暗をわけた戦いでした。
神聖ローマ帝国やポーランドは弱体化し、その領内の領邦国家やプロイセン公国が主権を獲得していく。
ヨーロッパ世界のパワーバランスが変わっていく出来事だったのです。

ドイツ帝国の誕生

三十年戦争により主権国家となったプロイセン王国。
しかし、いまだドイツとは呼ばれません。

1700年代、特にプロイセン王国のフリードリヒ2世は専制君主制を徹底し、戦争を経て強国となります。
プロイセン王国としての全盛期とも呼べるでしょう。

ようやくドイツらしい基盤ができあがる事件が起きたのが1814年のウィーン会議です。

ウィーン会議

ウィーン会議はナポレオン戦争終結に際する、ヨーロッパ再分割に関する会議です。
簡単に言えば、強すぎたナポレオンにより荒らされたヨーロッパを、元の形に戻そうとする会議でした。
オーストリア宰相のメッテルニヒ主催により行われました。

こうしてオーストリア皇帝が盟主となり、ドイツ地域の35の国家(プロイセン王国含む)を統合したドイツ連邦が誕生します。

ドイツ連邦は、いまいちまとまりのない連邦国家でした。
連邦を構成する諸国家の権力が強く、オーストリア皇帝にはまとめきれなかったのです。

そんな折、フランスで二月革命(1848年)が発生します。
労働者階級(プロレタリアート)中心に始まったこの革命は、ベルリンにも波及し、ドイツ連邦は瞬く間に消滅してしまいました。

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その後、再度1851年オーストリア盟主のドイツ連邦成立します。

宰相(さいしょう)ビスマルク

ビスマルクはドイツ帝国の宰相(さいしょう※首相)を務めた人物です。
有名なビスマルクの言葉があります。

「ドイツの統一は演説や会議の多数決ではなく、鉄と地によってのみ解決される」

これはビスマルクの鉄血政策と呼ばれるものです。
ビスマルクは積極的な軍備拡張を主張し、オーストリアを排除し、プロイセン王国こそが盟主となる強きドイツを作ろうとしたのです。

ビスマルクの狙いはプロイセン王国を盟主とするドイツの統一、そしてオーストリアの排除です。
どうしてもプロイセンにとってはオーストリアは目の上のたんこぶ。

ビスマルクの鉄血政策により軍備拡張を行ったプロイセン王国は、デンマーク、オーストリアとの戦争に勝利し、フランスとの戦争にも勝利しました。
こうして1871年、プロイセン国王を皇帝とするドイツ帝国が成立したのです。
プロイセン王国がドイツを統一した瞬間でした。

ビスマルク宰相は、日本の岩倉使節団にも大きな影響を与えています。
当時、日本は明治維新の真っ只中でした。
プロイセン王国は元々小国。それがドイツ帝国の盟主となるほどに強大な国となったのです。
早急に近代化を目指す日本にとって、ドイツの政策とビスマルク憲法と呼ばれる近代的憲法は、是非学んで帰りたい内容でした。

「外国の言いなりのまま近代化を図るのではなく、外国と肩を並べる軍事力を持ち近代化を図れ」

これがビスマルクの言葉です。
この言葉に大きく心を揺さぶられた岩倉使節団は、「近代国家とは何か」を深く心に刻み帰国するのでした。

ドイツ帝国は、1918年の第一次世界大戦敗北まで続くことになります。

まとめ

神聖ローマ帝国内の300ある領邦国家。
その中のドイツ人からなるドイツ騎士団。
異教徒との戦いからプロイセンを取得
宗教改革によりプロイセン公国となる。
キリスト新旧派の戦いが国際戦争に発展
力をつけたプロイセンはプロイセン王国に。
ビスマルクの登場により軍備強化
宿敵オーストリアを破り、ドイツ帝国を建国
プロイセン王国が盟主となり、代々ドイツ帝国の皇帝を輩出していくこととなる。

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