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命のビザ ユダヤ人を救え!

東洋のシンドラー

ドイツ人実業家、オスカー・シンドラーは第二次世界大戦末期に、多くのユダヤ人の命を救った人物です

ナチスドイツにより凄惨な迫害を受けていたユダヤ人

シンドラードイツ占領下のポーランドで、自らが経営していた軍需工場にユダヤ人を雇い入れ、身柄を保護しました

その数は1200人に上ると言われます

無差別に迫害されるユダヤ人の命を救ったシンドラー

映画「シンドラーのリスト」は、彼がユダヤ人労働者を保護するために作ったリストをテーマにした物語です

多くのユダヤ人の命を救ったシンドラー

そして、シンドラーと同じように多くのユダヤ人の命を救った日本人がいました

彼の名は杉原千畝(すぎはらちうね)

彼のとった行動は、多くのユダヤ人の命を救ったことから、東洋のシンドラーとも呼ばれます

外交官である杉原が発給し続けたビザは、命のビザと呼ばれ、今も多くのユダヤ人に語り継がれています

迫害されるユダヤ人

杉原千畝は6000人のユダヤ人の命を救った日本の外交官です

杉原はなぜビザ発給の決断に至ったのでしょうか

1939年9月1日第二次世界対戦が開戦しました

ナチスドイツポーランドに侵攻し、ポーランドの大部分を占領しました

この頃ポーランドには200万人以上のユダヤ人が暮らしていました

そこでナチスドイツユダヤ人ゲットーと呼ばれる強制居住区に隔離します

ユダヤ人の迫害はエスカレートする一方でした

主にガスによる虐殺

他に銃殺、絞首刑などが行われました

このことでユダヤ人は避難民として近隣のリトアニアに安全を求めて移動して行ったのです

しかし1940年リトアニアソ連に編入されることになります

ユダヤ人は西側からナチスドイツ、東側からソ連に挟まれる形となったのです

ユダヤ人の居場所はなくなっていきました

なぜユダヤ人ナチスドイツに迫害されたのでしょうか?

これに関しては、シンプルに「こうだから」とは言えないほど、奥深い歴史があります

ひとつは宗教的側面です

元々キリスト教は、ユダヤ人であるイエス・キリストを祖とします

しかし、ユダヤ教イエス・キリストの思想は相成らず、結局イエス・キリストユダヤ人の弟子ユダに裏切られ処刑されてしまいました

そのあたりはこちらの記事で詳しく説明しています

こういった経緯があり、キリスト教信者からしてみればユダヤ人教祖を売った卑しい民族という見方がありました

宗教面以外でも、ユダヤ人は金儲けが上手く、特に金貸業での手腕が秀逸なことから卑しき目で見られてしまったという側面もあります

しかし、ユダヤ人は固有の土地を持たず、各地を拠店として渡り歩いていたことから、このような業種で食っていく術を身に着けなければならなかったのでしょうし、何より大昔のたった一人の裏切りをいつまでも根に持たれてはたまったものじゃありません

結局は戦争のためのこじつけにすぎないのです

戦争に突入し、長期間民衆の戦意を高め続けるためには、ある種のスケープゴートが必要になるのです

ナチスドイツヒトラーは、それにユダヤ人を利用したのです

こうして目をそむけたくなるほどのホロコースト(ユダヤ人虐殺)が始まってしまいました

杉原夫妻の決意

一刻も早くこの場を離れないと危険だ

安住の地だったリトアニア

しかし、そこがソ連に編入されると否が応でも戦争に巻き込まれていく

ナチスドイツがなだれ込んでくるのも時間の問題です

迫害から逃れるため、ユダヤ人の多くはトルコを通りパレスチナに向かいました

しかし、ある日突然

ユダヤ人にビザは発給しない

リトアニアトルコ政府ユダヤ人に対してビザの発給を拒否するようになりました

ビザがなければ、その国を通ることはできません

この時点で、ほとんどの国の大使館や領事館は閉鎖されていました

しかし、とある領事館はまだ開いていました

それが日本の領事館です

この時ユダヤ人たちがナチスドイツの迫害から逃れるために残された道は、たった一つしかありませんでした

シベリア鉄道を使いソ連を横断し日本へ移動、日本経由でアメリカなどの第三国へ逃げる

これしかユダヤ人が生き延びるは残されていなかったのです

そのためには、日本領事館で発給される日本の通過ビザがどうしても必要であったのです

この時リトアニアの日本領事館に就任していたのが杉原千畝でした

1940年7月18日の早朝、大勢のユダヤ人が日本領事館前に殺到しました

私たちを助けてくださいお願いします

100人ものユダヤ人が押しかけ、訴えてくる光景に杉原は面食らいました

しかし、領事館と言えどそう易々とビザを発給できるわけではありません

リトアニアの領事館の目的は、ドイツソ連などの国々の動向を探るための情報収集でした

多くのビザの発給など想定外の出来事だったのです

さらに、日本ドイツが軍事同盟を結んでいたことが厄介でした

ここで安易にユダヤ人を逃がすためビザを発給すれば、同盟国のドイツどころか母国日本をも敵に回す可能性があるのです

しかし杉原は目の前の惨状を目の当たりにし、日本の外務省に連絡します

彼らにビザを発給する許可を!!

ところが、日本外務省からの回答は

旅費及び本邦滞在金を有する者にのみ査証発せよ

とのことでした

要するに金を持っているユダヤ人のみに発給を認めるという内容でした

いわゆるビザ発給に条件を課されたのです

命に条件が付せられる

杉原は決断を迫られました

杉原は事情を妻に話しました

下手をすれば自分たちの命さえ危うい

しかし、杉原の妻、幸子

あとで私たちはどうなるかわかりませんけど、助けてあげてください

と、杉原の背中を押したのです

ユダヤ人迫害の惨状を熟知する杉原は決心しました

条件に満たなくとも、領事館の権限でビザを出すことを

命のビザ

杉原は連日のように押し寄せるユダヤ人に対し、手書きでビザを発給し続けました

無条件でビザを発給してくれる

その噂を聞き付けたユダヤ人が連日押し寄せたのです

不眠不休の戦いでした

日本からも何度もリトアニアから退去するように催促がきました

約1か月間、杉原の戦いは続きました

その間、多くのユダヤ人が押し寄せてきます

1940年8月31日、日本政府の退去命令によりとうとう杉原リトアニアを去ることになります

列車の中でも発車直前までビザを発給し続けました

そして発車の時、杉原は大勢のユダヤ人に対し

許してください私にはもうビザを書くことができません

と頭を下げました

そこにいたユダヤ人たちは

私たちはあなたを忘れません、もう一度あなたにお会いしますよ!

と叫んだと言います

命をかけ書き続けたビザ

まさに命のビザでした

その後の杉原千畝

リトアニアは翌年の1941年8月にナチスドイツにより占領

リトアニアに残っていたユダヤ人はことごとく迫害されたと言います

第二次世界対戦中、総計およそ600万人のユダヤ人が命を奪われました。

そして1945年8月15日、終戦後、杉原リトアニアを離れた後ルーマニアで働いていました

しかし、ここで杉原は家族もろとも拘束されてしまいます

敗戦国の外交官という理由で、現地の捕虜収容所に連行され家族共々収監され過酷な収容生活が半年も続いたのです

終戦から2年が経ち、やっと杉原一家は帰国の途につきました

しかし、帰国すると杉原

君には外交官をやめてもらう

と告げられました

リトアニア領事館で無断でビザを発給した杉原は、責任を問われ退職を余儀なくされたのでした

戦後の1968年8月、イスラエル大使館から突然の電話がありました

大使館を訪ねてみると一人の外国人がおりました

やっと約束を果たすことができました

それはビザを発給したユダヤ人の代表の一人ニシュリでした

実に18年ぶりのことでありました

ニシュリは大切にとっておいたボロボロのビザを杉原に見せました

涙を流して再会を喜びに杉原は、改めて自分の行いが無駄ではなかった事を知ったのです

あなたの書いたビザが私たちの命を救ったのです

杉原はこれまでの苦労が報われた思いがしました

杉原が発給したビザ2132枚と推定され実際に助けたユダヤ人約6千人にも及びました

ビザはひと家族1枚で良いため、このような計算になります

杉原命のビザを発給した事実は、現在でもユダヤ人の間で語り継がれています

イスラエル政府が出しているユダヤ人に大きく影響した人をまとめているゴールデンブック

ここには杉原千畝という名前が記されイスラエルの首都テルアビブには杉原千畝通りという名前も作られました

そして、最後に杉原はこう言い残しています

大したことをしたわけではない、当然のことをしただけです