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神聖ローマ帝国とは(前編)

神聖ローマ帝国

ふと中学生の歴史教科書(東京書籍)をパラパラめくっていると、とても荘厳な名前を持つ国が突如現れます。
その名は神聖ローマ帝国です(教科書77ページ)

さらにパラパラめくっていくと、101ページの宗教改革あたりで再度登場します。
しかしいずれも地図上に名前が記されているのみで、特になんの説明書きもありません。

どことなくミステリアスな雰囲気を漂わせるこの神聖ローマ帝国
一体何者?なのでしょうか。

結論から言いますと、よくわからない国としか言えません。

帝国とは、権力ある皇帝とその子孫が代々治めていくのが通常です。

しかし、神聖ローマ帝国には、さほど権力がある皇帝がいたわけでもなく、ましてその子孫が跡を継ぐわけでもありません。
帝国内に存在する、諸侯(しょこう)と呼ばれる、権力ある貴族達が争い皇帝に就任したり、時には選挙で皇帝が選出されました。

さらに、「適任者がいない」との理由で皇帝が不在の時期もあったのです。

これだけでも謎めいた国家なのですが、ローマ帝国を名乗るわりには首都がローマでもない。
神聖と言う割には、とりわけ神聖な何かが存在するわけでもない。

神聖ローマ帝国とは、すなわちよくわからない国なのです。
よくわからないのですが、教科書にはちらほら出てくる名前ですので、気になる方も多いことでしょう。

簡単にですが、神聖ローマ帝国とは一体なんなのか?
見ていきたいと思います。

神聖ローマ帝国の成立背景

神聖ローマ帝国の成立背景には、ローマ・カトリック教会のある思惑が絡んでいます。
ローマ帝国は395年に、分割相続の問題で2つに分裂します。
こうして誕生したのが西ローマ帝国と東ローマ帝国でした。

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西ローマ帝国は首都をローマとし、東ローマ帝国はコンスタンティノープルを首都としました。

東ローマ帝国は、ビザンツ帝国と名称を変え、1453年にオスマントルコに滅ぼされるまで存続しました。
一方、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入により、476年に滅びてしまいます。

困ったのはローマ・カトリック教会でした。

当時、西のローマ・カトリック教会と東のコンスタンティノープル教会は対立関係にありました。
互いに、自らがキリスト教の頂点に立つ教会であると自負していたからです。

教会の権力は強固なものでしたが、権威を保つには後ろ盾となる強力な国家に支えられる必要があります。

東のコンスタンティノープル教会はビザンツ帝国、西のローマ・カトリック教会は西ローマ帝国に支えられていたのです。

しかし、西ローマ帝国の消滅により、ローマ・カトリック教会は後ろ盾を失ってしまうことになります。

フランク王国

そんな折、ゲルマン人の一派フランク人によりフランク王国が建国されます。

ローマ・カトリック教会は、この勢いのあるフランク王国を、自らの後ろ盾にしようと画策しました。

こうして、フランク王国はローマ・カトリック教会を守護する国家として、ローマ教皇から認められることになります。

800年に、フランク王国のカール大帝がローマ皇帝の冠を戴冠(たいかん)します。

それは由緒ある西ローマ帝国の皇帝として認められた瞬間でした。
西ローマ帝国の皇帝とは、単なる帝国の皇帝ではありません。

「神に代わり、西ヨーロッパを統治する」

神の使いとして、地上を支配する。それが西ローマ帝国の皇帝なのです。
※同じことは東のビザンツ帝国皇帝にも当てはまります。

西ローマ帝国の復活とも呼べるこの戴冠により、フランク王国は全盛期を迎えます。

しかし、このフランク王国の全盛期も長続きはしませんでした。
カール大帝が亡くなった後、フランク王国は領土の分割相続で3つに分裂してしまうのです。

西フランク、中央フランク、東フランクです。

神聖ローマ帝国の誕生

フランク王国が3つに分裂したことで、ローマ教皇はまたもや困ってしまいます。
ローマ教皇としては新たな自らの保護国を得る必要性に迫られたからです。

そんな中、東フランクのオットー1世が力を認められ、ローマ教皇から戴冠されます。
962年のことでした。

こうして誕生したのが神聖ローマ帝国です。
オットー1世は神聖ローマ帝国の初代皇帝となります。

「ローマ教皇に認められ皇帝を名乗る」

それが、キリスト教圏の西ヨーロッパで覇権を握るためには重要なことでした。

※神聖ローマ帝国の名称が付いたのは、13世紀になってからのことです。
実際この時は、ローマ帝国と呼ばれていましたが、便宜的に記事中は神聖ローマ帝国で統一します。

ただ、地図からおわかりのように、誕生当初の神聖ローマ帝国はローマにかすりもしていません。
ローマ教皇に認められた帝国であるのに首都がローマでもなく、ましてやローマは帝国の領内にもありません。

滑稽な形で存在することになってしまった神聖ローマ帝国。
そこでオットー1世初め、代々の皇帝はイタリアを勢力下に入れようと力を入れます。

ローマ・カトリック教会があるローマを支配すること。
それは西ローマ帝国の後継として、最重要課題でした。

そのため幾度となくイタリアを攻略しようとしました。
これがイタリア政策と呼ばれるものです。

結局イタリア政策は失敗に終わりました。
イタリア政策に夢中になりすぎた神聖ローマ帝国は、自国領内の政治をおろそかにしていました。
当然、国内の統一性は図れず、各諸侯が力を持つ権力分散型の国家になってしまいました。

神聖ローマ帝国の正体

皇帝に権力が一極集中するのではなく、各諸侯が大きな力を持つ権力分散型の国家になってしまった神聖ローマ帝国。

皇帝が君臨すれど、権力は微妙という、お世辞にも西ローマ帝国の後継国家と呼べるものではありませんでした。
それが神聖ローマ帝国です。

幾度となくイタリア政策をし続ける神聖ローマ帝国。
徐々にローマ教皇との間に軋轢(あつれき)が生まれます。
自国の統治もままならず、イタリア政策もままならない状況に、ローマ教皇もいらだち始めました。

皇帝の力が弱く、教皇の期待に応えられない。
神聖ローマ帝国の正体は、実はあまりぱっとしない、ローマ教皇の権威で成り立っていた帝国だったのです。

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