神聖ローマ帝国とは(後編) - 中学生のための、よくわかる歴史

神聖ローマ帝国とは(後編)

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カノッサの屈辱

ローマ教皇の権威で成り立っていた神聖ローマ帝国ですが、とうとう皇帝が教皇と争う事件が発生してしまいます
叙任権闘争(じょにんけんとうそう)です。

叙任権闘争(じょにんけんとうそう)


叙任権とは、聖職者や修道院長などを選ぶ権利のことです。
本来、叙任権とは聖職者の長(おさ)であるローマ教皇が持つべき権利です。
しかし、初代皇帝のオットー1世の頃から、皇帝による叙任権が一般化していきます。

イタリア政策により、神聖ローマ帝国は、各諸侯が大きな力を持つ権力分散型の国家になってしまいました。
諸侯たちは、神聖ローマ帝国内にありながら、独立した権力を持ち始めるのです。
彼らの領地は特に領邦(りょうほう)と呼ばれ、13世紀頃には300ほどの領邦が帝国内に存在することになります。

皇帝でありながらも分立した領邦をまとめられない状況。
そこで皇帝が考えついたこと。
それは各領邦内にある教会を味方につけることでした。

キリスト教国家にとって、教会の存在は、政治的にも重要でした。
教会を味方につけ、帝国としてのまとまりを取り戻そうとしたのです。

こうして利用されたのが叙任権です。
皇帝は叙任権を利用し、皇帝に対してはむかわない人間を次々に聖職者に任命し、教会の司祭に就かせたのです。

ところが、その叙任権は次第に売買の対象になっていきます。
聖職者たちは税金の面でも優遇されていました。
そのため人々は、聖職者の地位を購入しようと考え始めたのです。

これに異を唱えたのがローマ教皇のグレゴリウス7世でした。
叙任権をローマ教皇に返すように、皇帝ハインリッヒ4世に迫ったのです。

ハインリッヒ4世は頑なに拒んだため、グレゴリウス7世は
ハインリッヒ4世の破門(キリスト教世界からの追放)と皇帝権のはく奪を決定しました。

当初争う姿勢を見せていたハインリッヒ4世でしたが、結局グレゴリウス7世に謝罪しました。

グレゴリウス7世が滞在していたカノッサ城の前で、ハインリッヒ4世は教皇の赦し(ゆるし)を願いました。
裸足で雪降る中、赦しを請い、3日後にとうとう教皇に赦しをもらいました。
これが世にいうカノッサの屈辱(1077年)です。

ハプスブルク家

神聖ローマ帝国の皇帝は、先に話したとおり世襲制ではありませんでした。
世襲制とは、子や血がつながった者が受け継いでいく制度です。

有力な諸侯が皇帝に就任する。
選挙で諸侯たちの中から皇帝に選ばれる。

それらが神聖ローマ帝国の皇帝の選出方法でした。
各諸侯たちが力を持っていたとしても、各領邦はしょせん小国です。
他の強国に攻め立てられればひとたまりもありません。

そのため、形式的でもいいから神聖ローマ帝国としての形は作っておきたい。
それが各諸侯たちの思惑でした。
よって、皇帝とは名ばかり。とりあえず存在させておけばよい。
その程度のものだったのです。

その後、神聖ローマ帝国は、1250年~1274年まで大空位時代を迎えます。
皇帝がいなかった時代と呼ばれていますが
実際はドイツ諸侯の皇帝ではなく、オランダやスペイン人の皇帝が在位したため、こう呼ばれています。

その大空位時代後、皇帝に就くようになったのが、ドイツ諸侯から選ばれたハプスブルク家です。

貧乏貴族であったハプスブルク家ですが、政略結婚などによりヨーロッパの大部分を所有するに至ります。

ハプスブルク帝国

15世紀になると、神聖ローマ帝国の皇帝は、選挙制から世襲制へと変わります。
ハプスブルク家の者達が代々皇帝を継ぐことになります。

一時は貧乏貴族であったハプスブルク家でしたが、結婚政策により領土を拡大して行きました。
娘や息子を他国に嫁がせ、さらには皇帝自らが他国の王家の娘と結婚したりと、戦いよりも政略面で領土を拡大していきました。

その流れで神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン国王になったカール5世は、ポルトガルのイサベラと結婚。
カール5世の子フェリペ2世はイギリスのメアリ(ブラッディメアリ)と結婚し、ハプスブルク家の血はヨーロッパ中に拡大して行きます。

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こうして一大帝国ハプスブルク帝国が誕生することになります。
ただし、このハプスブルク帝国は神聖ローマ帝国に他国家や領邦が共存したものですので、根幹を成すものはやはり神聖ローマ帝国です。

ところが、ハプスブルク家が絶頂的にヨーロッパの覇権を握っていた頃、世界を奮わせる事件が起きます。
宗教改革(1517年)です。

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16~17世紀にかけて、キリスト教のカトリック派とプロテスタント派の争いが起こりました。

宗教改革に伴い、カトリック派とプロテスタント派は各地で戦争を起こしました。

しかし、一定の解決は図れないまま、1618年に宗教戦争が発生します。
それがドイツ地域を中心に発生した三十年戦争(1618年~1648年)です。

三十年戦争

元々は、ドイツ領邦内でのカトリック派とプロテスタント派の争い事でした。
しかし、この争いにヨーロッパ中のカトリックとプロテスタントが介入したがために、国際的な宗教戦争となってしまいました。

途中、宗教戦争とは全く関係なく、カトリック同士の国が戦ったりと、結局は国家利益優先の戦いとなっていきました。

三十年戦争はその名の通り30年続きました。
1648年にウエストファリア条約で戦争は終結しました。

条約が結ばれた結果、プロテスタントやカルヴァン派の新教も認められることになりました。
神聖ローマ帝国内の約300の領邦が独立し、連邦国家となります(ドイツ連邦)
さらに、オランダやスイスが独立し、神聖ローマ帝国の一部領土もフランスやスウェーデンに割譲されました。
ハプスブルク家の領土は、オーストリアとその周辺のみとなりました。

こうして実質的に神聖ローマ帝国は、国家としての意味がなくなってしまったのです。
しかし、名目上はハプスブルク家が皇帝の名前を継承していったため、しばらく神聖ローマ帝国の名前は残ることになります。

神聖ローマ帝国の消滅

時は流れ、ヨーロッパはフランス皇帝ナポレオンの快進撃が続いていた頃です。
1806年にナポレオンの東征により、ライン同盟が成立します。

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ライン同盟は、ナポレオンがドイツの諸邦をフランスに引き入れるために結成したものです。
その結果、神聖ローマ帝国内に残存していた領邦も次々に離脱しました。
もはや国家としての機能を完全に失ってしまった神聖ローマ帝国。
ハプスブルク家の最後の皇帝が退位することにより、完全に消滅してしまいました。

足早に見てきた神聖ローマ帝国でした。
962年~1806年と、存在していた期間が長いため歴史の教科書ではちらほら見かけることになります。
とても謎めいた国家ですが、まとめると以下のようになります。

西ローマ帝国の後継として、ローマ教皇により東フランク王国が選ばれた。
神聖ローマ帝国と名乗るが、ローマを領していないため果敢にイタリアへ進出する(イタリア政策)
イタリア政策に夢中になりすぎ、帝国内の政治をおろそかにし、諸侯たちが力をつけてくる。
約300の領邦が存在し、皇帝の言うことを聞かない。そのため皇帝は叙任権を利用し教会を手なずける。
叙任権がきっかけで皇帝と教皇がケンカする(カノッサの屈辱)
皇帝は有力な諸侯や選挙で選ばれた諸侯が就任した。
皇帝がいない(実質は他国の人間が在位)期間があった。
ハプスブルク家により、ようやく皇帝の世襲が始まる。
一時ハプスブルク帝国なる広大な領域となるが、宗教改革により激減
ナポレオンの東征により完全消滅

なんともおそまつな感じとしか言いようがないのですが、神聖ローマ帝国の概要を理解して頂けたら幸いです。
以上、「神聖ローマ帝国とは」でした。

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