フランスの歴史③
ウィーン体制
ナポレオンがロシアに敗れ、エルバ島に流された後、ヨーロッパ各国内に、ヨーロッパの秩序を取り戻そうとする動きが現れました。
その際に開かれた会議がウィーン会議です。
オーストリアの首都ウィーンで開かれたこの会議により、ヨーロッパ各国はしばらく平和な日々を過ごすこととなります。
このヨーロッパの秩序を保つことが出来たのは、ウィーン会議で取り決められたウィーン体制によるものでした。
主な会議の内容は、ナポレオンの築いた広大な帝国を分割し、各国ごとにその支配権を定めたことや、フランス革命以前のヨーロッパの秩序を取り戻すことでした。
会議の期間中にナポレオンがエルバ島を脱出し、百日天下を取るなど混乱も見られましたが、各国合意の元ウィーン会議は無事終了しました。
フランス革命前に秩序を戻すと言うことは、王政の復古に他なりません。
フランスとしては革命で近代化を図っていたところでしたが、敗戦国であるが故にフランス本土の領地まで分割されてしまうのは何としても避けたいことでした。
結局各国に譲歩する形で、フランスにも王政復古がもたらされ、ブルボン朝王政が復活することになります。
国王はルイ16世の弟ルイ18世です。
王政の復古と崩壊
ルイ18世によりブルボン朝の王政が復古したフランス王国。
彼は、これまでのフランス革命は「一体何であったのか」と思わせるような絶対王政を展開します。
とりわけ貴族や聖職者たちを優遇する政治は、旧体制アンシャンレジーム(身分制度)の復活そのものでした。
フランス革命が目指したものは「自由」「理念」「友愛」です。
具体的には、身分制度の撤廃や人間の平等、すなわち人権を尊重する民主主義の確立です。
ルイ18世の政治はその真逆を行くものでした。
当然、市民層からの反発は高まります。
特に一般市民の間で主流であったブルジョワジーと呼ばれる生産資本家階級が主体となり革命が勃発します。
そこでブルジョワ階級から人気の高かったルイ・フィリップが王位につき(フィリップ1世)、ブルボン朝は打倒されます。
これを持って絶対王政は完全に終わりを告げ、立憲君主制が成立することになります。
このブルボン朝が倒され、絶対王政が崩壊した出来事を七月革命と言います。
ルイ18世達が在位した1814年から1830年を復古ブルボン朝と言います。
フィリップ1世からはオルレアン朝と呼ばれ、立憲君主制の時代が始まります。
ところが、1848年になると再度革命が勃発します。
これを二月革命と言います。
二月革命
七月革命も二月革命も市民革命の中の一つです。
ただし、フランス革命も七月革命もブルジョワジー(資本家階級)主体の革命でしたが、二月革命の主体は違いました。
二月革命の主体はプロレタリアートと呼ばれる労働者階級のことでした。
資本家階級→ブルジョワジー
生産手段を有し、労働者を使い利益を得る階級
市民革命の主体を成した。
労働者階級→プロレタリアート
生産手段を持たない賃金で雇用される階級
資本家階級と労働者階級は対義的意味である。
資本主義とは、あるお金を元手に儲けを出し、利益を得ていくことです。
そのような社会構造を持つ国を資本主義国家と呼び、日本やアメリカ、他にも多くの国がこの資本主義国家です。
産業革命がヨーロッパに広がったころ、社会構造の在り方が大きく変化しました。
機械式の生産手段を手に入れてから、人々は大量生産と言う技術を身に着けたのです。
そうなると必要になってくるのは労働力です。
多くの労働者(プロレタリアート)が資本家(ブルジョワジー)から賃金を得て働き、大量生産を可能にさせて行く。
これが近代的資本主義体制の始まりでした。
ここで問題になるのが貧富の差です。
資本家は利益を得て、さらに労働者を雇い大量生産を拡大して行く。
しかし、労働者の暮らしは一向に楽にはならない。
しかも当時の労働条件は劣悪です。労働者を守る法整備もなされていません。
劣悪な労働環境、長時間労働、目に見えて貧富の差は拡大して行きました。
これに異を唱えた人がマルクスです。
マルクスは資本主義社会ではやがて限界が生じ、新たな社会構造が誕生すると説きました。
それが社会主義と呼ばれる考え方です。
人類が真に幸福を手にするには、一部の人間だけが持っている資本(富)を共有財産にすべきだと主張します。
会社も工場も店舗も全てみんなの物にし、資本家をなくす。
売上は全員で分配すると言う仕組みです。
すると労働者たちは、平等で十分な配給を受けられ、自主的に意欲的に労働をする環境が作られると言います。
資本主義による競争社会のおかげで人類はここまで発展できたと言う主張もある一方で、確かに貧富の差は広がり続けています。
とは言え、富を全ての人間の共有財産にしたらどうなるか。
マルクスの言うようにすんなり理想の社会を実現させることは難しいと思います。
仮に怠け者と働き者がいたとして、それでも賃金は一緒となると、働き者の労働意欲は失われることになります。
マルクスの言う社会主義の究極は、そのような損得勘定で物事を判断しないレベルの人間がつくる社会です。
「思いやり」
親が子を思うような無償の愛を他人にも向けられる世界。
それが究極の社会主義であり、真の共産主義と呼ばれるものです。
もし実現できればユートピアでしょうが、現時点での人類にとってはなかなか実現は難しいかもしれません。
残念ながら現段階で、人間はそこまでのレベルには達していないのです。
話がそれましたが、二月革命の主体は労働者(プロレタリアート)です。
背景にはイギリスから始まった産業革命がヨーロッパ各地に広まり、多くの資本家や労働者階級が生まれたところにあります。
ちょうどフランスでも産業革命が盛んになってきたところであり、オーストリアでも同様の革命が起こりました。
産業革命の広がりが各地に混乱を生み、しばらく平和を築いていたウィーン体制が崩壊することになります。
産業革命がもたらしたものは文明の発展だけではなく、極度の貧富の差です。
富が富を生み豊かになっていく資本家とは対照的に、労働者たちは困窮を極めました。
さらに追い打ちをかけたのが、当時の農作物の不作です。
労働者たちの困窮にさらに拍車をかけていました。
そのような中、マルクスの社会主義思想が急速に労働者の間に広まっていきます。
労働者たちは選挙法の改正を議会に求めました。
当時の選挙制度は制限選挙と呼ばれる、一定額以上の納税を果たした者しか選挙権を得られない仕組みです。
労働者達は政治に参加し、社会の制度を変えていきたい一心にかられていました。
しかし、国王フィリップ1世はこれを退けます。
金持ちしか政治に参加できない。
それでは貧しい者は一生貧しいまま死んでいくしかない。
とうとう労働者たちの怒りは頂点に達します。
こうして発生したのが二月革命です。
二月革命により、オルレアン朝は倒され再度共和制に移行します。
この共和制を第二共和制と呼びます(1848年~1852年)
この第二共和制の中、大統領に就任したのがルイ・ナポレオンです。
彼はナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世)の甥です。
ルイ・ナポレオンは資本家や農民層からの支持が強く、やがてボナパルティズムと呼ばれる独裁体制を取るようになり、皇帝となります(ナポレオン3世)
この治世を第二帝政期と呼びます。
ナポレオン3世は産業革命を推進し、フランスの近代化を図っていきます。
そのため資本家(ブルジョワジー)の勢いが増すことになり、労働者(プロレタリアート)達は再び不満を募らせていきます。
こうして出来上がってきたのがパリ・コミューンです。
パリ・コミューン
パリ・コミューンとはフランスの首都パリに展開された革命自治体のことです。
ナポレオン3世の政策の下労働者階級はさらに苦境に立たされていきます。
パリ市街の改造計画は、近代的な美しいフランスの都パリを表現するものでした。
パリ中心部からは住み慣れた労働者たちが強制立ち退きを指示され、彼らは周辺部に住み着くようになります。
中心部には貴族や資本家たちが住居を構えました。
ちょうど中心部を取り囲むように労働者たちが住んでいたため、その地域は「赤いベルト」と呼ばれました。
こうした背景があり、再び労働者たちが立ち上がり、プロレタリアート自治政府を宣言します。
言わば「労働者たちによる政府」です。
これがパリ・コミューンです。
しかしこのパリ・コミューンはすぐさま軍に鎮圧されることになります。
1871年のことでした。
短命でしたが、パリ・コミューンの意義は歴史的に見て重要です。
労働者階級の反乱、そして自治政府の発足。
パリコミューンの発足は、後の社会主義運動や共産主義運動に多大な影響を及ぼしていくことになるのです。