2つの中国(前編) - 中学生のための、よくわかる歴史

2つの中国(前編)

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アジアの大国、清

16世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ諸国はアジア進出に乗り出しました。
キリスト教の布教、貿易の独占のためです。
しかし、この当時のヨーロッパ諸国の国力は弱いものでした。
アメリカ大陸のインディアンやアフリカの原住民を征服することはできても、アジアの大国、清や当時鎖国を行っていた日本に対しては、非常に劣勢でした。
単純に清や日本の軍事力が上回っていたからです。
とても意外なことですが、当時のヨーロッパ諸国が、力づくで清や日本を従わせることは非常に困難だったのです。

では、このヨーロッパ諸国とアジアのパワーバランスがひっくり返った原因は何だったのでしょうか?

その原因は産業革命です。

世界を変えた産業革命

日本が長年続けてきた鎖国体制が崩壊したのも、産業革命が原因です。
1853年の黒船の来航で鎖国が終了したことは周知の事実です。

では、黒船はどのようにして誕生したのか?
蒸気機関を利用した黒船は、まさに産業革命により誕生したものです。

巨大な大砲を積み、多くの人員の輸送を可能にしたのが蒸気船です。
さらに産業革命は近代的な兵器を生みだすきっかけにもなりました。
ヨーロッパ諸国に遅れを取ったアジアは、こうして侵略の危機にさらされていくことになったのです。

ヨーロッパ諸国はアジアに対して軍事力で優勢になり、戦争により相手を征服することが可能になりました。

アヘン戦争

時は1840年のことです。
イギリスと清との間でアヘン戦争が始まりました。

アヘン戦争


イギリスは、清との貿易に大きな赤字を抱えていました。
綿織物などの工業製品が思うように売れなかったことが原因です。

ところが、イギリスの植民地のインドでは、絹織物がよく売れました。
そこでイギリスは、絹織物はインドに輸出し、清から茶や絹を輸入、インドから清にはアヘン(麻薬)を輸出する形をとりました。

これを三角貿易と言います。

イギリスの思惑は見事にはまり、清国民の間でアヘンが蔓延していきます。
アヘンは中毒性の高い麻薬のため、よく売れたのです。
こうしてイギリスは巨額の利益をあがていきます。

しかし、国民のアヘン中毒を危惧した清政府は、インドからのアヘン輸入を全面禁止しました。
この制裁を不服としたイギリスは、清に戦争をしかけました。
こうして起きたのがアヘン戦争です。

南京条約(なんきんじょうやく)

アヘン戦争は約2年続き、1842年の南京条約(なんきんじょうやく)をもって両国は講和します。

南京条約(1842年)


1 清はイギリスに2100万ドルの賠償金を支払う
2 広州、福州、厦門、寧波、上海の5港を開港
3 香港をイギリスに譲る
などが取り決められ、翌年には
イギリスに領事裁判権を認め、清に関税自主権がない不平等条約が結ばれました。

アジアの大国清が敗れたことは、日本に大きな衝撃を与えました。
古来から臣下の礼を尽くしてきた中国が負けたことで、日本は大きな不安を持つことになりました。

「世界から大きな遅れをとってしまっているのかもしれない」

鎖国下の江戸幕府の中にも、そのような不安を密かに考える人達が現れたのです。

数年後、黒船の来航で、その不安は的中してしまいます。

中国近代化への動き

さて、日本の話はさておき、アヘン戦争後、清は一気に弱体化していきます。
イギリスへの賠償金を支払うために、清政府は国民に重税を課します。

やがて清政府への不満の中から太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)が発生します。

洪秀全(こうしゅうぜん)が率いるこの大反乱(1851年~1864年)は、各地に広まりました。

さらに追い打ちをかけたのが日清戦争(1894年)の敗北です。

下関条約では遼東半島や台湾、澎湖諸島を日本に譲り渡し、約3憶1000万円の賠償金を日本に支払うことになります。

その後三国干渉で遼東半島は日本から返還されました。
しかし、清の弱体化を利用した欧米諸国は、こぞって中国国内の利権を支配していきます。

1905年のポーツマス条約(日露戦争)では、日本が満州での利権を独占するようになります。

アヘン戦争をきっかけに、清は急速に衰退していったのです。

こうした中、清国内では近代国家の建設を目指す革命運動が盛り上がっていくのです。
その中心人物が、三民主義を唱えた孫文(そんぶん)です。

中華民国の誕生

日本も欧米の圧力に屈した国です。
鎖国の崩壊をきっかけに欧米列強と不平等条約を調印することになりました。

それでも日本は清やロシアとの戦争に勝利し、欧米列強と肩を並べるほどになりました。
開国後、たった50年ほどの出来事です。

その鍵は近代化にこそあります。

孫文は、日本がとった積極的近代化政策こそが必要であると考えます。

こうして中国各地に起きたのが1911年の辛亥革命(しんがいかくめい)です。
多くの省が清から独立を果たし、各省が集まり共和国が成立します。
アジア最初の共和国、中華民国(ちゅうかみんこく)の誕生でした。

首都を南京(なんきん)とする中華民国の臨時大統領に孫文が就任しました。

揺れる中華民国

中華民国が建国され、中国国内は孫文率いる革命政府、そして清政府の2つが同時に存在することになりました。

清の軍人であった袁世凱(えんせいがい)は自らの軍事力と巧みなかけひきにより、清王朝の皇帝を退位させることに成功しました。
こうして中国最後の王朝の清は滅びることになります。

孫文は臨時政府の臨時大統領の地位を袁世凱(えんせいがい)に譲り渡しました。

時は1915年、辛亥革命から4年の月日が流れた頃、世界は第一次世界大戦の真っただ中でした。
中華民国は、日本から21か条の要求を突き付けられます。

袁世凱は諸外国に訴え、日本の21か条の要求をしりぞけようと尽力しました。
成立したばかりの中華民国には、自分の力でこの要求を拒否できる力がなかったのです。

結局、袁世凱の力及ばず、中華民国政府は21か条の要求を受け入れることになります。

失意の中、袁世凱は生涯を閉じます。1916年のことでした。

袁世凱の死を受けると、途端に中華民国内は内戦状態に陥ります。
中華民国内の軍部内派閥(軍閥)による争いが発生したのです。

第一次世界大戦が終結すると、中華民国政府は山東省の日本からの返還を強く主張しました。
しかし、その要望は認められませんでした。
こうして、北京を中心に反日、反帝国主義運動が発生します。
これが五・四運動(ごしうんどう)です。

現在の中国

五・四運動がきっかけに中華民国内には中国国民党中国共産党が誕生します。
この2つの政党は、時に共闘し、時に争いあうという歴史を繰り返していきます。
そしてこの2つの政党は結局相容れることはなく、今日に至っています。

中国共産党は社会主義国家である中華人民共和国(現中国)を建国します。

そして中国国民党は、現台湾に移り、それぞれが中国全土を統一する政府であると主張しています。
中国国民党も中国共産党もお互いが正当なる中国であると主張しているのです。

こうして妥協点が見つからないまま、現在まで2つの中国が存在する形になっています。

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ならぼん
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