鎖国でも、特別なオランダと中国
特別なオランダと中国
中学歴史定期テスト対策の第27回目です。
教科書は119P~120Pです。
鎖国化下での対外政策です。
鎖国とは言っても、日本は完全に外国との関係を遮断したわけではありません。
害はなく、利益になるような外国との関係は維持していました。
それがオランダや中国です。
なぜオランダや中国は鎖国の対象にならなかったのか。
その他、どのような国が鎖国下の日本と関わり続けていたのか。
しっかり覚えましょう。
鎖国下の中国とオランダ
ずばり、これらの国との交易を続けていたのは、害がなく利益があったからです。
当時の日本にとっての最大の危機はキリスト教でした。
島原一揆は幕府も相当手こずったからね。
キリシタンに対する秀忠や家光の政策は、厳しいものでした。
なぜ、江戸幕府はキリシタンに対してそのような厳しい態度をとったのか。
それは、キリスト教の教えは、神の教えが全てであったからです。
領主よりも神の存在を尊ぶ。
キリスト教は、江戸幕府の体制を揺るがしかねない存在であったのです。
神様の言うことしか聞かなくなってしまったら、幕府としては日本を治めずらいもんな。
神とまではいかなくても、それぐらいの尊厳が将軍には必要だったでしょうね。
似たような話で、ローマ皇帝のキリスト教徒迫害があります。
イエス・キリストの死後、ペテロをはじめとする弟子たちへの迫害は続きました。
しかし、ペテロ達の努力もあり、キリスト教は瞬く間に西ヨーロッパに広まっていきます。
結局、キリスト教徒に呑み込まれ、ローマ帝国はキリスト教を国教にしました。
迫害しても立ち上がるキリスト教徒。
皇帝もキリスト教と歩みを共にする道、共存を選んだのです。
日本は島国であり、鎖国の効果が高かったため、キリスト教の国教化までには至りませんでした。
特にスペインやポルトガルは、カトリック系キリスト教であったため、鎖国により真っ先に締め出しを食らいました。
カトリックはアジア諸国へのキリスト教布教を積極的に行っていたからです。
対して、オランダは同じ西ヨーロッパの国でもカトリックではありませんでした。
宗教改革により新たに作られた一派、プロテスタントです。
何が違うの?
詳しくは宗教改革で話しますが、プロテスタントは布教に積極的ではありませんでした。
オランダはインドに海外貿易の拠点を持っており、布教よりも貿易による利益を求めました。
そうか!貿易はするけど、キリスト教の布教はしない。
江戸幕府にとっては、オランダはまさに「害はないが利益が出せる相手」だったんですね!
なるほど。中国と貿易を続けた理由もわかるね。
中国もキリスト教とは関係ないもんな。
当時、中国は明(みん)に代わり、新たに清(しん)という王朝が支配していました。
日本は鎖国政策により、東南アジアに繁栄していた日本町を失いました。
しかし、中国の生糸や絹織物は、日本にとって重要な商品でした。
日本町を失った日本が、東南アジアの品物を入手する方法、それは中国(清)との貿易でした。
生糸、絹織物、東南アジアの品々。
そしてキリスト教徒の布教を行わない。
これらの条件を満たす中国は、鎖国下の日本にとって最重要な貿易国となったのです。
オランダもキリスト教の布教をしない。
そして、莫大な利益を生む貿易国です。
中国もオランダも、キリスト教の布教をせず、貿易の利益を得られる国
それが鎖国下でも日本が貿易を続けた理由です。
キリスト教の布教をせず、貿易の利益を得る。
まさに日本にとって都合の良い国
ただし、幕府も海外の情報を得ることは怠りませんでした。
オランダ、中国には貿易を許可する代わりに、海外の情報を常に報告させました。
オランダにはオランダ風説書き中国には唐船風説書を提出させたのです。
海外情勢も気になりますからね。
結局、それもあまり役には立たず、世界がどれほど成長しているかを把握出来ませんでした。
それが鎖国政策下の江戸幕府の失態です。
気が付けば、黒船来航で大混乱ですからね。
自分たちの都合よいことばかり・・・とはいかないんですね。
朝鮮、琉球王国、アイヌ民族との交易
さらに日本は、朝鮮、琉球王国(りゅうきゅうおうこく)、アイヌの人々と交易を行います。
琉球王国!沖縄か!
この時はまだ外国だったんだね。
アイヌの人々が暮らしていたのが蝦夷地(えぞち)です。
今の北海道です。
北海道も、当時はまだ日本ではなかったんですね。
朝鮮と積極的に交流を行ったのが、対馬藩(つしまはん)でした。
対馬藩は九州の長崎にあります。
朝鮮からの輸入品は木綿、朝鮮ニンジン、絹織物です。
日本から朝鮮へは銀や銅です。
江戸幕府の将軍が代わるごとに、朝鮮からの祝いの使節朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)が派遣されるなど、対馬藩のおかげで、日本と朝鮮は良好な関係を築いていました。
今度は鹿児島県の薩摩藩(さつまはん)です。
薩摩藩は琉球王国へ積極的に干渉しました。
薩摩藩は琉球王国を介して、中国などと貿易を行い大きな利益を得ていました。
九州の藩が経済的に豊かになっていく理由が、よくわかります。
そしてアイヌの人々との交易です。
蝦夷地(えぞち)は当時、日本ではありませんでしたが、松前藩(まつまえはん)が蝦夷地の南部に領地を持っていました。
対馬藩、薩摩藩、松前藩。
この3つは覚えておいた方が良さそうですね。
アイヌの人々は、漁業を中心に千島列島、樺太(サハリン)の人々、中国とも交易を行っていました。
松前藩もまた、アイヌの人々と交易を行い、大きな利益を得ていました。
松前藩は米や食器などの日用品を、さけやこんぶなどの海産物と交換し利益を得ていました。
こうした取引に不公平感を感じていたアイヌの人々は、首長シャクシャインの下、松前藩と一戦交えましたが、敗れてしまいました。
鎖国政策下でも江戸幕府は一部の外国と交易を行いました。
害がなく利益を得られる国とだけです。
対馬藩、薩摩藩、松前藩の位置を地図で確認しましょう。