
田沼意次(たぬまおきつぐ)の登場







株仲間(かぶなかま)は、同業者同士が協力し、営業を独占するシステムです。
例えば、複数の八百屋同士が株仲間を組織し、幕府に営業を保護してもらいます。
幕府は株仲間から税金を得る代わりに、株仲間を保護します。
株仲間に入らない八百屋は、営業が出来なくなる仕組みです。
幕府は株仲間からの税金を、幕府の財源にあてました。
田沼意次は、この株仲間の制度を奨励し、どんどん株仲間を作らせ、営業税を徴収していったのです。
田沼意次の政治は、従来の農業中心の政治体制から商業中心の政治体制へ移行しようとしたところに特色があります。
幕府の財源確保手段である年貢米では、安定した財源確保が出来ないからです。
主な政策が株仲間の奨励
印旛沼(いんばぬま※千葉県)の干拓を行い新田開発
鉱山開発、蝦夷地(えぞち※北海道)の開発
俵物(たわらもの)の貿易※アワビなど海産物を俵に入れて輸出したもの。
田沼の政治により、幕府の財政も安定を見せつつありました。
ところが、貨幣中心の生活になり、ある問題が発生します。
賄賂(わいろ)の横行です。
地位や特権を金で買う風潮が生まれ、田沼意次は責任を問われます。
次いで1782年の天明の大飢饉と浅間山の噴火により各地で凶作。
結果百姓一揆や打ちこわしが頻発し、とうとう田沼は失職してしまいました。

寛政(かんせい)の改革


松平定信は祖父徳川吉宗の政治を復活させようとしました。
質素倹約に努め贅沢を禁じる。
昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)を建て、学問を朱子学(儒学)のみとする。
政治批判を厳しく禁止し、出版物も厳しく統制した。
借金で苦しむ武士を助けるため、借金を帳消しにした。
※これを棄捐令(きえんれい)と呼びます。
これが寛政の改革(かんせいのかいかく)の主な内容です。

江戸幕府、最後の改革


1841年に水野忠邦が行った改革です。
質素倹約を奨励し、営業を独占している株仲間を解散させる。
質素倹約は相変わらず進めることになります。
米が不作で価格があがり、一揆や打ちこわしが起こる。
結局江戸時代はこれの繰り返しでした。
幕府が手軽に出来ることと言えば、武士から庶民に至るまで贅沢を禁じることしかなかったのです。
そして、天保の改革と言えば、株仲間の解散です。
田沼意次の政策により、盛んになっていた株仲間を解散させました。
独占営業をやめさせ、個々人に営業を行わせることにより経済の活性化を狙いました。
アヘン戦争で清がイギリスに敗れ、異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)をやめる。
忠邦が、欧米諸国には、武力ではとうてい敵わないことを知ったためです。
忠邦は、日本を訪れた外国船に対して燃料のマキや水を与え、丁重に帰ってもらいました。
江戸や大阪近辺の大名の領地を幕領(ばくりょう)にしようとした。
江戸や大阪を幕府直轄地にして来るべき外国との戦いに備え、防御力を高めようとしました。
当然元々の領主であった大名たちの反発を受け、失敗します。
結局大きな成果は出せず、忠邦は2年余りで失脚しました。









江戸の改革を年代順にまとめましょう。
根幹になるのは質素倹約(しっそけんやく)です。
年貢米を税収にしていたので、飢饉(ききん)が発生すると一気に幕府や藩は貧乏になります。
それでも幕府は年貢米を徴収します。
米屋は米の価格を上げて儲けようとします。
起こった民衆は打ちこわしや百姓一揆を起こします。
改革は失敗し、また新たな者が改革を行う。
しかし基本となるのは質素倹約。
年貢米依存では結局、時代遅れだということを知ります。
しかし、時は既に遅く、欧米の脅威がアジアへ進出を開始していたのです。
日本も間もなく、欧米の脅威にさらされていくことになります。

