第一次世界大戦後の世界

ベルサイユ条約、国際連盟、ワシントン条約
、二十一カ条の要求。
この4つの言葉の意味とそれらが何をもたらしたのか。
しっかりと自分の言葉で説明できるようにしましょう。
二十一カ条の要求

日本が中国へつきつけた、21の条文からなる要求を二十一カ条の要求と言います。
主な内容は以下の通りです。
1 山東省の権益をドイツから引き継ぐこと
2 旅順・大連などの租借期限、南満州鉄道の期限を99年延長すること
3 南満州などの鉱山の採掘権を日本に与えること

清が滅亡し、中華民国が成立したばかりの中国には、この要求をはねのける力がありませんでした。
さらに、第一次世界大戦はヨーロッパが主戦場であったため、列強の戦力が東アジアから手薄になっていたことが、日本にとっては好都合でした。



第一次世界大戦は連合国側の勝利で終結しました。
1919年にパリ講和会議が開かれます。
講和会議の主な内容は、ドイツの弱体化についてでした。
戦争の責任をドイツに押し付けることで、ドイツの国力を奪おうとしました。
会議では、民族自決の原則も主張され、東ヨーロッパで多くの小国が独立しました。
しかし、アジアやアフリカでは依然として植民地支配が継続されました。
同年1919年、フランスのベルサイユにおいて、第一次世界大戦の講和条約が調印されました。
それがベルサイユ条約です。
ベルサイユ条約によって、ドイツは領土を縮小され、植民地を失い、巨額の賠償金を支払うことになりました。
日本は、ドイツが失った植民地である中国の山東省を手に入れます。
ベルサイユ条約は、敗戦国側、特にドイツにとっては非常に厳しい内容でした。
二度と同じ惨劇を繰り返さないためにも、敗戦国に対し過酷な制裁を課したのです。
さらに、アメリカのウィルソン大統領の提案を元に、国際平和と国際協調を目的とする国際連盟が発足しました。
常任理事国にはイギリス、フランス、イタリア、日本が選ばれました。
アメリカは連盟発足の提案国でしたが、国内議会での賛成を得られず不参加となりました。
国際連盟の本部はスイスのジュネーブです。






1921年にワシントン会議が開かれ、各国海軍軍備の制限や太平洋地域の現状維持を確認しました。
日英同盟が解消され、アメリカ、フランス、イギリス、日本の間で新たに四か国条約が調印されました。
四か国条約の調印が実現したことで、日英間の同盟はもはや無用となったのです。
さらに、敗戦国のドイツも国際連盟への加盟を認められました。
こうして国際協調の時代がやってきます。
中国の反帝国主義運動













こうして起こったのが五・四運動(ごしうんどう)です。
北京を中心に起きた反日、反帝国主義運動です。
少し話が難しいですが、この五・四運動をきっかけに中華民国内には孫文が結成した中国国民党と中国共産党が誕生します。
以後、この2つの党は、国内の安定した統一のため力を合わせますが、結局党の統一にまでは至りませんでした。
結果、中国国民党は現台湾、中国共産党は中華人民共和国(現中国)として現在まで存続しています。

中国国民党は台湾から中国全土を統一する政府であると主張し、中国共産党は我こそが正当なる中国であると主張しています。
よって、「2つの中国」と呼ぶ人もいます。



1919年、三・一独立運動(さんいちどくりつうんどう)が朝鮮で発生します。
民族自決の影響を受けた朝鮮国内で、日本の植民地支配下から独立しようとする動きが生まれたのです。
結局、朝鮮総督府に武力で鎮圧されています。



