江戸の庶民派、化政文化
江戸で花開く、化政文化
中学歴史定期テスト対策の第32回目です。
2回に分けてお送りする、江戸時代の文化。
今回は化政文化です。
教科書は130P~134Pです。
江戸時代後半の庶民派文化を見ていきましょう。
化政文化は元禄文化と打って変わり、江戸で花開いた文化です。
庶民が中心の文化です。
化政文化が栄えたころの江戸時代の出来事を見てみましょう。
1782年、日本は天明の飢饉(てんめいのききん)に襲われました。
浅間山の噴火の被害もあり、各地で米不足が深刻な状況になりました。
打ちこわしや百姓一揆が多発し、責任を問われ、田沼意次(たぬまおきつぐ)が失脚します。
ここで新たな改革に着手したのが老中松平定信(まつだいらさだのぶ)です。
しかし、新たな改革とは言っても、真新しいことは何もありませんでした。
定信はただ、祖父である徳川吉宗の質素倹約を徹底しただけでした。
当然、根本的な解決にはならず、打ちこわしや百姓一揆は多発します。
こうした中、全国各地の藩(はん)も財政難が深刻化していきます。
藩の中だけで使用出来る藩札(はんさつ)と呼ばれるお金を発行したり、家臣の俸禄(ほうろく)を減らし、対策を講じました。
な、なんか元禄文化と違って、化政文化って大変な時に栄えた文化なんだね。
それだけではありません。
この頃になると、日本の鎖国体制を揺るがす事態が発生します。
外国船が現れ始めるのです。
1792年、ロシアの使節ラクスマンが蝦夷地(えぞち)の根室(ねむろ)に来航しました。
漂流していた日本人、大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を送り届けてきたのです。
ラクスマンは幕府に対し、通商を求めました。
通商とは外国と商取引、つまり貿易をすることです。
幕府はいったん保留し、長崎で交渉に応じるとし、ラクスマンに対し再度来航するよう求めました。
1804年、約束通り長崎に現れたロシア船。使節はレザノフです。
しかし、幕府は、鎖国を理由にロシアとの国交を拒否しました。
これ以降、ロシアを警戒した幕府は、蝦夷地を幕府の直轄地とし、蝦夷地や樺太(からふと)を徹底調査しました。
幕府の命で樺太を調査した間宮林蔵(まみやりんぞう)の名を取り、樺太(からふと)西側海峡(かいきょう)は、間宮海峡と名付けられました。
まだこの頃は外国との交渉を断る力があったんですね。
ところが、このロシア船来航を皮切りに、イギリスなどの船も日本に近づいてきました。
1808年、イギリスの船が長崎の港へ侵入する事件が起こりました(フェートン号事件)
1825年、幕府はとうとう異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を出します。
アメリカ商船を砲撃した事件(モリソン号事件)は打払いの一例です。
こうした中、蘭学者(らんがくしゃ)の渡辺崋山(わたなべかざん)や高野長英(たかのちょうえい)らは、異国船の打払いを厳しく批判しました。
そのため、1839年、崋山らは幕府に処罰されました。
これが蛮社の獄(ばんしゃのごく)です。
1830年代には天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)が発生します。
各地で百姓一揆や打ちこわしが多発する中、元幕府の役人であり陽明学者(ようめいがくしゃ)の大塩平八郎(おおしおへいはちろう)が、大商人を襲いました。
米や金を飢饉(ききん)で苦しむ人達に分け与えようとしたのです(大塩の乱1837年)
飢饉(ききん)や外国の問題。
それらの問題を抱えた中、栄えたのが化政文化なのです。
浮世絵の技術が進み、鈴木晴信(すずきはるのぶ)が錦絵(にしきえ)と呼ばれる多色刷りの版画を始めました。
この錦絵が大流行し、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は歌舞伎役者の絵を描きました。
喜多川歌麿(きたがわうたまろ)は美人画。
葛飾北斎(かつしかほくさい)
や歌川広重(うたがわひろしげ)は風景画を残しました。
こちらは葛飾北斎の富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)の神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)です。
大相撲(おおずもう)が人気を博したのも化政文化の頃です。
※画像はイメージです。
他にも、化政文化期に重要なことと言えば、工場制手工業(こうじょうせいしゅこうぎょう)が広まったことです。
金持ちが労働者を雇うってやつだ!!
そして、化政文化が生まれるちょっと前になりますが、学問の分野でも様々な変化が訪れました。
本居宣長(もとおりのりなが)が、日本の古来の精神を取り戻すために、古事記伝(こじきでん)を著しました。
古来編纂された古事記は、まだ平仮名が広まる前に作られたものです。
万葉仮名(まんようがな)と呼ばれる漢字による書物は、実に読みにくく難解なものでした。
本居宣長は、古事記を平仮名を使い、読みやすくし、古来の日本の精神を世に伝えたのです。
宣長の古事記伝は評価が高く、多くの日本人に受け入れられました。
特に、日本古来の精神を明らかにし、天皇を尊ぶ姿勢を著した古事記伝。
その精神は、日本を外国から守るという幕末の志士たちへ、大きな影響を与えることになります。
本居宣長の、古事記伝は国学として大成します。
国学に対し、西洋の学問も学ばれました。
日本は、鎖国の中でも中国とオランダとは国交を持っていたため、オランダの学問蘭学(らんがく)が学ばれました。
蘭学の代表者は杉田玄白(すぎたげんぱく)です。
玄白は、ヨーロッパの解剖書を翻訳した解体新書(かいたいしんしょ)を出版しました。
医学の世界に大きく貢献しました。
こうした中から、国内にも学問の広がりが見られ、庶民の間でも学問の道が開かれることになります。
読み、書き、そろばんなど、全国各地で教育のための寺小屋が開かれました。
広く万人にも学ぶ機会を与える。
農民の子は、ただ一生田を耕せば良い
そのような時代は、もはや時代遅れになりつつあったのです。
以上、化政文化でした。
次回からはいよいよ幕末に入って行きます。
難しくなりますから、よく出来事の前後関係を意識してくださいね。