1853年運命の時、黒船来航

キーワードは不平等条約(ふびょうどうじょうやく)です。
鎖国政策が崩壊し、開国を余儀なくされた日本。
そこでは不平等条約という過酷な条件が課されました。
以後、この不平等条約のために日本は苦しむことになります。
東インド艦隊司令長官ペリー
ヨーロッパ諸国が東アジア進出を試みるように、アメリカもまた東アジアを目指しました。
長い太平洋を横断する際に、日本は燃料補給などの中継地として重要な地点にありました。
そこでアメリカは東インド艦隊司令長官ペリーを日本に派遣しました。
日本の鎖国政策をやめさせ、港を開放させるためです。

突然、黒煙をふかしながら浦賀沖(神奈川県)に現れた4隻の黒船。

鎖国下の江戸時代の人々は度肝(どぎも)を抜かします。
巨大な鉄の塊が、人力ではなく勝手に動いている。
そして立ち並ぶ大砲。
産業革命とは無縁の江戸時代の人々にとって、目を疑うような光景でした。
1853年、ペリー来航です。

歴史の勉強は、必ず世界とのつながりを意識してください。
ここまでの勉強で、ペリー来航には産業革命がおおいに関係していたことがわかったはずです。
産業革命の影響がどのように日本の歴史に影響していったのか、よく意識してください。
ペリーの来航がきっかけで、鎖国下の江戸時代がようやく世界とのつながりを取り戻すのです。

























日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)

幕府はいかに対応すべきか困り果て、大名や朝廷にお伺いをたてました。
これまで、政治は幕府の専門分野で行い、大名や朝廷には事後報告だった江戸幕府。
国の一大事に大名や朝廷に相談を持ちかける様を見て、周囲はこう思いました。
「もはや幕府はあてにならない」
江戸時代の諸改革、失敗しては百姓一揆や打ちこわし、そしてまた苦し紛れの改革。
ただでさえ幕府の政治に疑問を持たれていた矢先に、外国の脅威を目の当たりにした各藩や朝廷。
幕府には任せてはいられないという思いが勝り、やがて大名や朝廷の発言権が強まっていくことになります。
1854年、ペリーは約束通りに来訪しました。
幕府はやむなく日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を結びました。
その結果、下田と函館の2港を開き、アメリカの領事を下田に置くこと、そしてアメリカ船に食料や水、石炭を供給することになりました。

こうして江戸幕府の鎖国政策は崩れ去り、日本は開国することになったのです。




不平等条約の締結(ていけつ)

通商条約とは、商取引を行うための条約です。
ここは日米和親条約と混同するところです。
日米和親条約は、港を開くことを約束し、下田に領事を置くことを認めた条約です。
いわば国交(こっこう)を持ちましょうという条約です。
いったん国を開かせたアメリカは強気に出てきます。
今度は商取引を行うように日本に迫ってきました。
こうしてアメリカと結んだのが日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)です(1858年)

まず、この条約を締結するにあたり、幕府の大老井伊直弼(いいなおすけ)は朝廷の許可を得ませんでした。
井伊直弼の独断の行動は、諸藩や朝廷の怒りを買うことになります。
函館、神奈川、長崎、新潟、神戸の5港を開き、そこでアメリカ人が自由に貿易を行うことを認めました。
なぜ日米修好通商条約が不平等条約と呼ばれるのかは、以下の通りです。
関税自主権(かんぜいじしゅけん)がなく、領事裁判権(りょうじさいばんけん)を認めること。
関税とは日本への輸入品にかける税金のことです。
安い外国産の製品が輸入されると、国内の製品が売れなくなります。
国内の産業を守るために、外国からの輸入品には関税をかけ、価格をあげて国内の製品を守ることができます。
関税自主権がないとは、まさにこの関税をかけることができずに、外国の安い製品がそのまま売られることになります。
国内の同産業は大打撃を受けることになります。
領事裁判権を認めるとは、外国人を日本の法律で裁けなくなるということです。
通常、外国人が日本で犯罪を犯せば日本の法律で裁くことになります。
しかし、領事裁判権を認めてしまうと、その外国人を日本の法律では裁けなくなります。
このような日本に一方的に不利な条約を不平等条約と言います。
詳しくは、以下をご覧ください。









