国を閉ざす。日本、鎖国へ

初代将軍、徳川家康は外国との貿易を推奨しました。
しかし、3代将軍家光の時には貿易を停止、外国との交流を絶つ鎖国(さこく)政策を掲げます。
この極端な方針変更の背景にあった出来事を、学びましょう。
朱印船(しゅいんせん)貿易と日本町



国家として貿易を推奨した家康は、朱印状(しゅいんじょう)を発行し貿易船に持たせました。
朱印状(しゅいんじょう)を持つ貿易船は、日本の正式な貿易船として貿易相手国から保護されました。
朱印状(しゅいんじょう)を持った貿易船による貿易。
これを朱印船貿易と言います。
朱印船貿易は大いに利益をあげました。
多くの商人、中には西日本の大名にまで貿易を行う者が現れました。











江戸幕府、キリスト教の禁止へ





キリスト教禁止令を禁教令(きんきょうれい)と言います。
禁教令は、2代将軍秀忠、3代将軍家光と次第に禁教令を強化していきます。
2代将軍秀忠は、禁教令に背き信仰をやめない信徒たちを処刑していきました。
3代将軍家光は、外国と関わりを持ち続ける以上、キリスト教を日本から根絶することは不可能だと考えました。

そこで家光が考えたことは、朱印船貿易の停止(1635年)でした。
さらに、日本人の出国と帰国を一切禁止しました。
そして、長崎に出島(でじま)を築き、そこへポルトガル人を移し、日本人と交流することを禁止しました。




島原・天草一揆と鎖国完成
江戸幕府の禁教令、キリシタンへの迫害、重い年貢。
このような過酷な状況にあるキリシタン達に、あるお告げがもたらされます。
長崎の島原で救世主が現れるというものです。
救世主と言えば、キリスト教の中ではイエス・キリストを指します。
島原のキリシタン達は大きな希望を見つけ、救世主の誕生を待ちます。
数年後、島原にある男の子が生まれました。
その男の子が天草四郎(あまくさしろう)です。

四郎の本名は益田四郎時貞(ますだしろうときさだ)です。
四郎は幼少期から読み書きに優れ、病気の人を触れるだけで治す、海面を歩くなど数々の奇跡が語られています。
信ぴょう性は不明ですが、幼少期からカリスマ性を発揮していた四郎は、瞬く間にキリシタンの救世主として崇められていきます。
1637年、年齢わずか16歳の天草四郎を総大将に、キリシタンが一揆を起こしました。
島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)です。
この一揆の鎮圧に、幕府は思いのほか苦戦します。
死をも恐れないキリシタン達、そして神の子天草四郎をリーダーとする一揆軍を壊滅させるのは、非常に困難だったのです。
一揆軍を甘く見ていた幕府軍は、一気に大軍を送りこみます。
原城(はらじょう)に立てこもった天草四郎達一揆軍は、幕府側の籠城策により、食料の確保ルートを断たれ、次々に餓死(がし)していきます。
原城内部は、木の皮を食べ、がりがりに痩せほそったキリシタン達であふれました。
それでも戦い続けたのは、奇跡の子、天草四郎がいたからに他なりません。
しかし、とうとう幕府軍の前に、四郎達一揆軍は敗北します。
幕府軍、一揆軍共に大きな被害を出した島原・天草一揆は、1638年に鎮圧されたのです。
原城は焼け落ちましたが、天草四郎の姿は発見されていません。

1641年、平戸にあった長崎商館は、出島に移されました。
中国船とオランダ船だけが長崎での貿易を許されました。
幕府による禁教、貿易統制、外交独占は鎖国(さこく)と呼ばれます。
鎖国は1641年の長崎商館の出島への移転をもって完成しました。
日本は、この後1853年のペリーの黒船来航まで、実に200年もの間、孤立した社会の中で生きていくことになります。









幕府は徹底したキリスト教徒の改宗を行っていきます。
キリスト教徒ではないことを証明させるために、絵踏みを行わせました。
キリシタンにイエス・キリストの絵を踏ませ、踏めば改宗したと判断。
踏めなければキリスト教をやめられない者として、処罰されたのです。
