鎌倉の執権北条氏 - 中学生のための、よくわかる歴史
定期テスト対策
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鎌倉の執権北条氏

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鎌倉の執権北条氏

定期テスト対策の9回目です。
70P~71Pです。
鎌倉幕府の成立と執権政治です。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)


幕府とは武士による政権のことです。
本来、政治は天皇を中心とした朝廷が行うものです。

平氏を滅亡させ、全国を支配下に置いた源頼朝(みなもとのよりとも)は、その朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されます。
征夷大将軍となった頼朝は、朝廷に代わり鎌倉にて政治を行うことになります。
こうして誕生したのが鎌倉幕府です。
武士の頭領として、朝廷に代わり政権を持った頼朝は鎌倉に幕府を開きました。

鎌倉幕府の成立時期については諸説あります。
1183年や1185年説。
1192年に頼朝が征夷大将軍に任命されていることから、1192年とする説もあります。

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頼朝は、1185年に国ごとに守護(しゅご)を、荘園や公領に地頭(じとう)を置きました。

守護と地頭


国ごとに置かれた守護は、国内の軍事・警察、御家人の統率を行いました。
「国内の治安を守る」
それが守護の役割です。

荘園や公領に置かれた地頭は、年貢の取り立てや、その荘園や公領の管理・警察を行いました。

一言一句、しっかりと覚えておきましょう。
守護と地頭の任務は頻出問題です。
それぞれどのような任務を行っていたのか、説明出来るようにしましょう。

御恩(ごおん)と奉公(ほうこう

鎌倉時代の武士と将軍の絆は、御恩と奉公で結ばれていました。
御恩と奉公で結ばれた関係を主従関係(しゅじゅうかんけい)と言います。

将軍は、武士の領地を保護しました。
いつ誰に奪われるかわからないこの時代の領地を保障すること。
これは武士にとっては非常にありがたいことでした。
そのうえ、戦いに勝てば恩賞として新しい領地も与えられます。

このように、武士の所有していた領地を保護し、新しい領地を与えること御恩(ごおん)と呼びます。

御恩を受けている武士は、将軍に忠誠を誓います。
忠誠を誓った武士を御家人(ごけにん)と言います。

御家人は、御恩に報いるために命をかけて戦い、天皇の住まいや鎌倉の警備を行いました。
これを奉公(ほうこう)と言います。

御恩と奉公は鎌倉時代のキーワードです。

執権政治(しっけんせいじ)

初めての武家政権鎌倉幕府も、頼朝の死とともに一気に弱体化します。
御家人同士の争いが絶えず、権力は一気に北条氏に傾いていきます。
同じ御家人である北条氏が、御家人達をまとめあげたからです。

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執権政治


執権(しっけん)とは将軍を補佐する役職ですが、実質は北条氏の独占でした。
将軍の力を弱め、実質は北条氏が政治の実権を握りました。
これを執権政治と言います。

承久の乱(じょうきゅうのらん)

鎌倉幕府は武家政権です。
当然面白くないのは天皇を中心とする朝廷です。
これまでは自分たちのボディガードでった武士。
幕府の弱体化は天皇にとってチャンス到来でした。

将軍をさしおき、政治の実権を握った執権北条氏。
幕府内は不安定な時期が続きました。
そのような中、第三代将軍の源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺される事件が起こりました。

幕府内は混乱を極めました。
ここで待ってましたと兵を挙げたのは後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)です。
1221年の承久の乱(じょうきゅうのらん)です。

しかし、後鳥羽上皇は幕府軍に敗れ、隠岐(おき)※島根県に島流しにされました。

幕府のこのピンチを救ったのは、源頼朝の妻、北条政子(ほうじょうまさこ)です。

吾妻鏡(あずまかがみ)


後鳥羽上皇は、幕府の混乱につけいり、承久の乱を起こしました。
御家人達の中には、幕府を見限り、上皇に味方したほうが良いのではないかと思う者もいました。

ここで北条政子が御家人達に訴えかけます。
「これまで頼朝から受けた恩を今こそ返すべきではないか」
と檄(げき)を飛ばし、御家人達を奮い立たせたのです。

この北条政子の檄により、御家人達はひとつにまとまり、上皇軍を打ち払ったのです。

これは歴史書吾妻鏡(あずまかがみ)に収められている話です。

承久の乱は1221年、幕府を倒そうとした後鳥羽上皇が起こした乱です。
北条政子の檄により、幕府側が勝利します。
そして、この後の動きが重要です。
幕府は鎌倉にあります。京からは遠く離れています。
遠すぎる故、朝廷の怪しい動きを感知できなかった。それが承久の乱です。
そのため幕府は京の朝廷の動きを監視するために六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置しました。

さらに上皇に味方した貴族や西国の武士の土地を没収し、東国武士に分け与えました。

御成敗式目(ごせいばいしきもく)

執権政治は、執権の北条氏を中心に有力な御家人が集まった話し合いで行われていました。
北条泰時(ほうじょうやすとき)の時に、この話し合いを制度化します。
これを評定(ひょうじょう)と言います。

執権政治は、執権の北条氏を中心に有力な御家人が集まった話し合いで行われていました。
北条泰時(ほうじょうやすとき)の時に、この話し合いを制度化します。
これを評定(ひょうじょう)と言います。

御成敗式目(ごせいばいしきもく)


北条泰時の最も偉大な功績は御成敗式目の制定です。
当時、政治は執権を中心とした話し合いで行われました。
当然、判断がつかない事件が起き、結論が出ないということもありました。
それらの混乱を防ぐため、ひとつの判断基準をつくったものが御成敗式目です。

判断基準を作ることにより、様々な争い事に即座に対応出来るようになったのです。

朝廷の律令とは別に、武士独自の法でした。
別名を貞永式目(じょうえいしきもく)と言います。

誰が執権の時に、どのような出来事があったのか。
曖昧に覚えていると失点につながります。
教科書を良く見て整理しておきましょう。

北条時政は幕府の混乱時に御家人をまとめ、執権政治の基盤を作った人です。
北条泰時は御成敗式目と評定
北条時宗は元寇(げんこう)の時の執権です。

鎌倉幕府の仕組みもよく整理しておきましょう。
特に六波羅探題は最初から置かれたものではありません。
先ほど話したように、承久の乱後、朝廷の監視をするために置かれたのです。

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ならぼん
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