昭和恐慌と満州事変

政党内閣の終焉、そして軍部の台頭。
国際的に孤立していく日本。
第一次世界大戦では戦勝国であった日本が、なぜ孤立していくことになってしまったのか。
世界と日本の関係を意識しながら、学習していきましょう。
政党政治の進展と昭和恐慌
憲政の常道




1924年、加藤高明内閣が成立して以降、立憲政友会と立憲民政党(憲政会)の2つの政党が交互に政権を担当しました。
アメリカの共和党と民主党が交互に政権をとるようなイメージです。
二大政党が内閣を組閣するこの慣例を憲政の常道(けんせいのじょうどう)と言います。
政党政治が全盛を迎えたときでした。

昭和恐慌

1923年、関東大震災が発災しました。
多くの犠牲者を出した関東大震災は、日本の経済活動にも大きなダメージを与えました。
経済の不況が続く中、アメリカで発生した世界恐慌は日本にも広がりました。
こうして1930年ごろに始まったのが昭和恐慌です。
長引く不況、企業の倒産が続く中、人々は現金を取り戻すため銀行に殺到します。
政府は銀行への貸付を行いますが、取り急ぎのものだったので、裏側は白紙の紙幣でした。

満州事変(まんしゅうじへん)



1911年、辛亥革命(しんがいかくめい)が起こりました。
辛亥革命がきっかけとなり、多くの省(しょう)が清から独立を果たします。
1912年、南京を首都とする中華民国が建国されます。
三民主義を唱える孫文が臨時大統領に就任します。
中華民国が成立しても、北京にはなお清の実力者袁世凱(えんせいがい)がいました。
その袁世凱が清の皇帝を退位させます。
こうして清は長い歴史に幕を閉じ、滅びてしまいます。
南京の孫文は、臨時政府の軍事的弱体を憂い、臨時大統領の座を袁世凱に譲ります(1913年)
袁世凱は中華民国の首都を北京に移します。
このように中華民国は当初から統一性がない上に、中国各地には軍閥(ぐんばつ)が点在していました。
軍閥とは、特に支配地を持ち、勢力を持った軍人たちです。
1916年、袁世凱(えんせいがい)の死去後、首都北京では軍閥が政権を奪ってしまいました。
さらに軍閥同士が各地で争うようになります。
これに対して孫文が軍閥政府に対抗します(1917年)
「中華民国をひとつの国家にまとめあげなければならない。」
孫文は行動を起こします。
孫文は中国国民党を立ち上げました。
こうしてできたのが国民政府です。
これはどう考えても異常な事態です。
北京には軍閥の政府、南京には国民政府。
同じ国に2つの政権が共立し、さらに各地で軍閥が力を持っていることから、当時の中国は全く統一性がない国だったのです。
さらに1921年にはロシアの社会主義革命の影響を受け、中国共産党が成立します。
中国共産党は、後に毛沢東(もうたくとう)が実権を握ります。
この中国の分裂状態を欧米列強は見逃すはずはありません。
列強は中国内で自国の影響力を及ぼすため、各軍閥や、国民政府など各々支援しました。
中国が分裂状態にある方がなにかと都合がいいからです。
孫文が死去すると中国国民党は蒋介石(しょうかいせき)が実権を握ります。
1926年、北京の軍閥政府を討伐するために蒋介石は北上します。
北伐(ほくばつ)と呼ばれます。
張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件




関東軍は、張作霖(ちょうさくりん)が乗った列車を爆破しました。
蒋介石率いる国民政府軍のしわざに見せかけるためでした。
関東軍満州支配の口実を得て、蒋介石率いる国民政府軍に対抗しようとします。
ところが爆殺事件は、日本の自作自演だとばれてしまいます。
その事実知った軍閥は、怒りをあらわにし、満州支配を国民政府に譲ってしまいました。
これが一連の張作霖爆殺事件(1928年)です。

今度は柳条湖で南満州の鉄道が爆破される事件が発生しました。
これも関東軍による自作自演でした。

この事件を口実に満州を完全に占領した関東軍は、満州国を建国しました。

柳条湖事件、そして満州国の成立。
この一連の事件を満州事変(まんしゅうじへん)と言います。
国際連盟脱退

国際連盟は、リットン調査団を満州に派遣します。
リットン調査団の報告に基づき、日本軍の満州からの撤退を勧告します。
満州国の成立を侵略行為と決定したのです。
しかし、これを不服とした日本は、国際連盟から脱退してしまいました。
日本は国際的孤立を深めて行くとともに、ファシズム化したドイツと日独防共協定を結びました。
政党内閣の終わりと軍事政権の誕生












五・一五、二・二六事件












