昭和恐慌と満州事変
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昭和恐慌と満州事変
中学歴史定期テスト対策の第52回目です。
世界恐慌の対策として、日本はどのような行動に出たのでしょうか。
教科書は216P~219Pです。
政党内閣の終焉、そして軍部の台頭。
国際的に孤立していく日本。
第一次世界大戦では戦勝国であった日本が、なぜ孤立していくことになってしまったのか。
世界と日本の関係を意識しながら、学習していきましょう。
政党政治の進展と昭和恐慌
憲政の常道
政党内閣は原敬の時に本格的に始まったという話は覚えていますね?
それ以降、政治は政党内閣が行う流れになっていきます。
衆議院で多数の議席を持つ政党が内閣を組閣するんでしたね。
衆議院議員は一般人の選挙で選ばれるから、民衆による政治に一歩近づいたんだったね。
こうして2つの大きな政党によって、交互に政権を担当する時期が続きます。
これを憲政の常道(けんせいのじょうどう)と言います。
1924年、加藤高明内閣が成立して以降、立憲政友会と立憲民政党(憲政会)の2つの政党が交互に政権を担当しました。
アメリカの共和党と民主党が交互に政権をとるようなイメージです。
二大政党が内閣を組閣するこの慣例を憲政の常道(けんせいのじょうどう)と言います。
政党政治が全盛を迎えたときでした。
原敬で本格化し、その後政党内閣の時代が確立したんですね。
昭和恐慌
しかし、政党内閣の勢いは長く続きませんでした。
関東大震災、そして昭和恐慌の不幸が次々に日本を襲ったのです。
1923年、関東大震災が発災しました。
多くの犠牲者を出した関東大震災は、日本の経済活動にも大きなダメージを与えました。
経済の不況が続く中、アメリカで発生した世界恐慌は日本にも広がりました。
こうして1930年ごろに始まったのが昭和恐慌です。
長引く不況、企業の倒産が続く中、人々は現金を取り戻すため銀行に殺到します。
政府は銀行への貸付を行いますが、取り急ぎのものだったので、裏側は白紙の紙幣でした。
こうした経済的不況の中、頼りない政策、そして汚職などで徐々に政党内閣への不信感が高まって行きました。
満州事変(まんしゅうじへん)
話を中国へ移します。
辛亥革命(しんがいかくめい)で成立した中華民国は非常に不安定な状況でした。
列強に侵食されていく清政府を打倒して成立した国家でしたが、なかなか国内の統一が進みませんでした。
中国は中華民国が統一していたのではないのですか?
ここからは中国を中心に説明したほうがわかりやすいので、まず中国の時系列を簡単におさらいしておきましょう。
1911年、辛亥革命(しんがいかくめい)が起こりました。
辛亥革命がきっかけとなり、多くの省(しょう)が清から独立を果たします。
1912年、南京を首都とする中華民国が建国されます。
三民主義を唱える孫文が臨時大統領に就任します。
中華民国が成立しても、北京にはなお清の実力者袁世凱(えんせいがい)がいました。
その袁世凱が清の皇帝を退位させます。
こうして清は長い歴史に幕を閉じ、滅びてしまいます。
南京の孫文は、臨時政府の軍事的弱体を憂い、臨時大統領の座を袁世凱に譲ります(1913年)
袁世凱は中華民国の首都を北京に移します。
このように中華民国は当初から統一性がない上に、中国各地には軍閥(ぐんばつ)が点在していました。
軍閥とは、特に支配地を持ち、勢力を持った軍人たちです。
1916年、袁世凱(えんせいがい)の死去後、首都北京では軍閥が政権を奪ってしまいました。
さらに軍閥同士が各地で争うようになります。
これに対して孫文が軍閥政府に対抗します(1917年)
「中華民国をひとつの国家にまとめあげなければならない。」
孫文は行動を起こします。
孫文は中国国民党を立ち上げました。
こうしてできたのが国民政府です。
これはどう考えても異常な事態です。
北京には軍閥の政府、南京には国民政府。
同じ国に2つの政権が共立し、さらに各地で軍閥が力を持っていることから、当時の中国は全く統一性がない国だったのです。
さらに1921年にはロシアの社会主義革命の影響を受け、中国共産党が成立します。
中国共産党は、後に毛沢東(もうたくとう)が実権を握ります。
この中国の分裂状態を欧米列強は見逃すはずはありません。
列強は中国内で自国の影響力を及ぼすため、各軍閥や、国民政府など各々支援しました。
中国が分裂状態にある方がなにかと都合がいいからです。
孫文が死去すると中国国民党は蒋介石(しょうかいせき)が実権を握ります。
1926年、北京の軍閥政府を討伐するために蒋介石は北上します。
北伐(ほくばつ)と呼ばれます。
張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件
満州では、張作霖(ちょうさくりん)率いる軍閥が勢力を持っていました。
当時、日本は張作霖を支援し、満州での権益を最大限に活用していました。
「列強が各々を支援していた」という部分ですね。
日本は張作霖率いる軍閥を支援していたんですね。
蒋介石が北伐に向かったということは、日本と衝突するのでは?
満州が蒋介石に奪われてしまっては、日本としては痛手です。
そこで関東軍(満州に駐留していた日本軍)は、ある行動に出ます。
それが張作霖爆殺事件です。
関東軍は、張作霖(ちょうさくりん)が乗った列車を爆破しました。
蒋介石率いる国民政府軍のしわざに見せかけるためでした。
関東軍満州支配の口実を得て、蒋介石率いる国民政府軍に対抗しようとします。
ところが爆殺事件は、日本の自作自演だとばれてしまいます。
その事実知った軍閥は、怒りをあらわにし、満州支配を国民政府に譲ってしまいました。
これが一連の張作霖爆殺事件(1928年)です。
満州を何としても取り戻したい関東軍は、柳条湖事件(1931年)を起こします。
今度は柳条湖で南満州の鉄道が爆破される事件が発生しました。
これも関東軍による自作自演でした。
この事件を口実に満州を完全に占領した関東軍は、満州国を建国しました。
柳条湖事件、そして満州国の成立。
この一連の事件を満州事変(まんしゅうじへん)と言います。
国際連盟脱退
中国は国際連盟に日本の満州国宣言は侵略行為だと訴えました。
国際連盟は、リットン調査団を満州に派遣します。
リットン調査団の報告に基づき、日本軍の満州からの撤退を勧告します。
満州国の成立を侵略行為と決定したのです。
しかし、これを不服とした日本は、国際連盟から脱退してしまいました。
日本は国際的孤立を深めて行くとともに、ファシズム化したドイツと日独防共協定を結びました。
政党内閣の終わりと軍事政権の誕生
満州事変について、どう考えますか?
自作自演てとこが、なんとも。
日本国民はどう思ったんでしょうか?
国民は歓迎しました。
そ、そうなんだ!?
とにかく、満州は軍事的にも経済的にも日本にとって手放せない場所でした。
特に満州鉄道の利益は莫大でしたから、昭和恐慌真っただ中の国民には歓迎されたのです。
そうか、不景気だったからか。
ここでもドイツやイタリアと同じようなことが起こっているのです。
気付きましたか?
植民地・・・ですか?
そのとおりです。
植民地を持たない国が恐慌を乗り切るためには、植民地を持ちブロック経済政策を行う必要があったのです。
イタリアでいうエチオピアですね。
ドイツもやがて東ヨーロッパに侵攻していきます。
日本では、満州・・・てことなんだね。
世界恐慌が世界を戦争に巻き込んでいく理由が、おわかりいただけたでしょうか?
五・一五、二・二六事件
当時の首相、犬養毅(いぬかいつよし)は満州国の建国を承認しませんでした。
犬養は海軍の青年将校に暗殺されてしまいます。
ひええ。
弱腰と取れる犬養の外行姿勢に、不満を持つ者達の行いでした。
これ以降、軍人が首相になることが多くなります。
軍人が首相だと、満州での関東軍のような行動が横行してしまうのでは?
政党内閣も限界が来ていました。
イタリアやドイツのように「強いリーダーシップ」を国民も求め始めていたのかもしれません。
犬養をもって、政党内閣の時代は終わりを告げます。
民主主義が・・・・。
犬養毅暗殺事件は五・一五(ごいちご)事件と呼ばれます。
続いて二・二六(に・にろく)事件です。
ややこしい。
二・二六事件は、国家革新事件です。
頼りない政党内閣や、自らの利益しか考えない財閥に反対し、天皇による強い日本国を作り直そうとする青年将校たちにより起こされた事件です。
完全に軍部が力を持ち始めましたね。
もうこの勢いは止められません。
ドイツ、イタリア、そして日本。
とうとう大戦の足音が聞こえ始めます。