欧米の近代化
キーワードは革命(かくめい)です。
革命とは、これまであった権力や社会構造を否定し、新しい仕組みを生みだすことを言います。
わかりやすく言えば、「王様が一人で決めることをやめて、これからは話し合いで決めようじゃないか」というような動きです。
しかし、王は簡単にそれを認めるわけにはいきません。
そのため、民衆は戦って血を流し、世の中を変えていかなければなりませんでした。
こうした革命により近代社会の構造が出来上がっていきます。
マグナ・カルタ
当時、イギリスでは、国王の専制政治が行われていました。
国王を中心とする王族が、ほぼ独断で国内の政治を行いました。
これを専制政治(せんせいせいじ)と言います。
当時のイギリス国王にジョン王という人がいました。
イギリスの領土をフランスに奪われたり、ローマ教皇の怒りを買い、教皇に謝罪するなど、ちょっと残念な王でした。
このような王でしたから、専制政治の勢いも弱く、とうとう貴族達は王権に制限をかけることに成功しました。
それがマグナ・カルタです。
王権に制限をかけ、国民の権利を認めさせた文書。
このマグナ・カルタにジョン王が署名したことで、イギリスの国家統治形態が変化します。
それが議会制度と呼ばれるものです。
以後長い時を経て、議会の承認により国王が政治を行っていくスタイルが確立していきます。
マグナ・カルタは、後のイギリス立憲君主制(りっけんくんしゅせい)の基礎となるものです。
立憲君主制(りっけんくんしゅせい)とは、憲法によって、王の権力が制限されることを言います。
対して、専制君主制(せんせいくんしゅせい)とは、王が独断で政治を行うことを言います。
ジョン王については、以下に詳しく解説しています。
イギリス革命
チャールズ1世という王がいました。
この王は、議会を無視して独断で政治を行いました(専制君主)
あまりの好き放題に、国民は猛反発しました。
議会はチャールズ1世に対して抗議し、専制政治をやめさせようとしました。
しかしチャールズ1世は全く聞き入れませんでした。
これに怒って兵をあげたのが議会のクロムウェルです。
クロムウェルは国王軍を破り、チャールズ1世は処刑されます。
ここに王政は倒れ、共和制(きょうわせい)がもたらされます。
共和制とは王政に対する政治形態です。
国王が政治を行うのではなく、多数の人々の意思によって政治を行う制度です。
つまり、議会を政治の中心にすることです。
クロムウェルが国王を倒し、共和制をもたらしたこの戦いはピューリタン革命(1642年)と呼ばれます。
チャールズ1世は、議会だけではなく、清教徒(ピューリタン)に対しても弾圧しました。
革命軍の中心は、清教徒が多かったため、ピューリタン革命と呼ばれるのです。
王はジェームズ2世という人でした。
専制政治を繰り広げ、議会を無視し、反発を買っていました。
議会は再び王を打倒しようと試みます。
議会は、策略を練り、ジェームズ2世を追いだすことに成功しました。
以後、議会制が復活し王政は再び倒れることになります。
血を流さず、国王を追放することに成功したので名誉革命(めいよかくめい)と呼ばれます。
1688年のことでした。
世界初の立憲君主制の始まり
権利章典は、国王の権限を制限するものとして、一種の憲法としての効力を持ちます。
この権利章典によって、世界初の立憲君主制(りっけんくんしゅせい)が始まり、本格的な議会政治が始まりました。
立憲君主制(りっけんくんしゅせい)とは、憲法によって、王の権力が制限されることを言います。
イギリス革命によりもたらされたもの、それは
王政から立憲君主制への移行
議会政治の確立
です。
誕生アメリカ合衆国
北アメリカ大陸は、コロンブスにより発見されたのち、スペイン人が移住していきました。
のちにフランス人やイギリス人も移民するようになりました。
北アメリカ大陸は、やがてイギリスとフランスとの間で、植民地の奪い合いの場となりました。
イギリスは植民地争奪戦を優位に進めていましたが、徐々に戦費がかさみ、財政状況が苦しくなっていきました。
この戦費調達をするために、イギリス本国は、北アメリカのイギリス植民地に課税をしようとしました。
課税に対する反発から、次第にイギリス植民地の、イギリス本国からの独立機運が高まって行きました。
こうして独立を果たしたイギリス植民地こそ、アメリカ合衆国です(1776年)。
とはいえ、当初は東部13州しかない、まだまだ小国のアメリカでした。
植民地と言えど、イギリス人が住んでいる以上、当然イギリス人としての権利が認められるはずです。
しかし、イギリス本国は、イギリス植民地の代表者が議会に参加することを拒みました。
植民地という理由で議会に参加できないことは、植民地イギリス人にとって、屈辱的なことでした。
そこで、戦費がかさむと言う理由で植民地に課税しようとするイギリス本国の行為に、イギリス植民地は猛反対します。
「議会に参加できない我々に、課税するつもりか」
こうして発生した反対運動が激化し、やがて1776年の独立戦争に発展するのです。
啓蒙思想(けいもうしそう)
キリスト教の世界観や王政という、生まれながらにして当たり前のことと思っていたことは果たして真実なのか。
迷信や偏見を捨てよ。
理性を重視し、真実を見つめ、自らの考えを持ち行動せよという思想です。
人は本来どうあるべきかを考える思想となりました。
モンテスキュー、ルソー、ロックは特に啓蒙思想家と呼ばれ、絶対王政への批判、人民の政治参加について考える機会を与えました。