勃発!日清日露戦争

欧米列強が東アジアへ進出すると同様に、ロシアもまた東アジア進出を目論みます。
いわゆるロシアの南下政策です。
「ロシアの南下を阻みたい」
この利害が一致し、イギリスと日本は同盟を結びます。
日英通商航海条約(にちえいつうしょうこうかいじょうやく)です。
ロシアの南下は日本が最も恐れていた行動です。
日本は朝鮮の近代化を成功させ、ロシアの南下政策を阻む壁を作ろうとします。
ところが、朝鮮は日本の言いなりにはなりません。
清との協調路線を取る朝鮮。
いつしか朝鮮半島は、日本、ロシア、イギリス、清にとって重要な地になっていくのでした。
開戦、日清戦争

東学(とうがく)を信仰する宗教団体を中心とした農民が、武装蜂起しました。
欧米や日本などの外国人排斥運動、そして腐敗した朝鮮政府へ政治改革を求めました。
こうして発生したのが甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)です。





ロシアはこの頃、シベリア鉄道を完成させていました。
ヨーロッパを横断できるロシアの鉄道です。
広大なロシアの国を、大量の物資と人間の移動を可能にさせたのがシベリア鉄道です。
シベリア鉄道は朝鮮半島付近まで延びてきていました。
いつ何時でも大軍を朝鮮半島付近まで集結できる。
ロシアに朝鮮半島を占領されれば、日本は常に大国ロシアの脅威を目の当たりにしなければなりません。
日本は朝鮮半島の混乱を早期に収拾させなければなりませんでした。


下関条約(しものせきじょうやく)





日清戦争は日本の勝利で終わりました。
清は日本との講和を余儀なくされ、下関条約が結ばれました。
戦勝国に有利な条件で結ばれる講和条約。
下関条約は、日本にとって非常に有利な内容でした。
1 清は朝鮮の独立を認めること
2 遼東(りょうとう)半島、台湾、澎湖(ほうこ)諸島を日本に譲り渡すこと
3 賠償金3憶1000万円を日本に譲り渡すこと
当時の日本の国家予算が約1億円であったことから、約3年分の国家予算を賠償金で得たことになります。
日本はこの賠償金の7割を軍備費にあてがい、一挙に軍事大国へとのし上がることになります。
三国干渉(さんごくかんしょう)

ロシア、ドイツ、フランスが日本に圧力をかけてきました。
これを三国干渉(さんごくかんしょう)と言います。
いかに大国清に勝利したとは言え、日本はロシア、ドイツ、フランスを一挙に敵に回す余裕はありません。
日本はしぶしぶ遼東半島の旅順(りょじゅん)、大連(だいれん)をロシアに譲渡しました。
不凍港を求めるロシアにとって、この地は非常に重要な港湾でした。
さらにドイツが山東省の膠州湾(こうしゅうわん)、イギリスが九竜半島と威海衛(いかいえい)、フランスが広州湾を獲得しました。
各国はさらに清国内での鉄道の敷設権、鉱山の開発権を清から手に入れました。
朝鮮は清から独立を果たしました。
大韓帝国(だいかんていこく)の誕生(1897年)。
この三国干渉を機に中国の弱体化が一気に進みました。


義和団事件(ぎわだんじけん)
義和団事件とは、山東省へのドイツの駐留やキリスト教布教へ反対する、宗教団体義和団(ぎわだん)が起こした反乱です。
貧しい農民達を味方につけ、大規模な反乱を起こしました。
彼らは扶清滅洋(ふしんめつよう)を唱え、欧米列強を中国から追い出そうとしました。
※扶清滅洋(ふしんめつよう)・・・「清を扶けて(たすけて)外国勢力を討ち滅ぼす」
清政府も義和団の勢いを利用し、欧米列強に宣戦しました。
しかし、清はあっけなく欧米列強や日本の手によって鎮圧されてしまいました。




義和団の反抗を鎮圧した欧米や日本。
本来はこれで解散となるはずでしたが、ロシアはあろうことか満州を占領してしまいました。
じりじりと南下してくるロシア。
もはや日本もこの状況を見過ごすことは出来ませんでした。
「ここでロシアを食い止めねばなるまい」
これ以上ロシアに南下されることは、日本にとって死活問題になります。



日英同盟と日露戦争
1902年、日本はイギリスと日英同盟を結びます。
ロシアの南下は、東アジアへ進出してきているイギリスにとっても厄介な問題でした。
日本にとってもイギリスにとっても、ロシアは潰しておきたい敵です。
お互いの利害の一致からも、同盟は必然的なものでした。








ポーツマス条約

アメリカのポーツマスで調印された条約です。
1 韓国における日本の優越権を認める
2 旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道利権を日本に譲る
3 北緯50度以南の樺太(からふと)を日本に譲る
4 沿海州・カムチャッカ半島周辺での日本の漁業権を認める
以上が、ロシアが日本に対して認める内容です。

ロシアに勝利した日本。
しかし、その勝利はギリギリなものでした。
日本の実力は確かにあったものの、大国ロシアへは完全勝利と言うわけにはいかなかったのです。
そのため、戦勝国である日本はロシアから賠償金をもらうことができませんでした。
ここで日本国民は大暴動を起こします。
これが日比谷焼き討ち事件(ひびややきうちじけん)と呼ばれるものです。
戦争のために国家へ尽くしてきた国民。
しかし、賠償金がとれないとわかると、戦争への怒りは明治政府へ向かうことになったのです。