日本人と鉄砲、そしてキリスト教

大航海時代の新たな航路発見により、西洋諸国はアジア進出の足掛かりを得ました。
日本にも、当然西洋諸国の足が忍び寄ってきます。
中でも、日本の行く末に大きく影響を及ぼすものが伝わります。
鉄砲とキリスト教です。
鉄砲の伝来


1543年、ポルトガル人を乗せた中国船が、日本の種子島(たねがしま)に流れ着きました。
ポルトガル人が持っていたもの。それが鉄砲です。
鉄砲は瞬く間に日本各地に広まりました。
火を着けた縄を使用し、火薬を爆発させて使用したので火縄銃(ひなわじゅう)と呼ばれました。
種子島に伝わったのが鉄砲の始まりだったので、火縄銃は、別名種子島とも呼ばれました。
雨風に弱く、一度発射すると次の射撃までに時間を要します。
そのような欠点がある高価な火縄銃に、多くの戦国大名はあまり興味を示しませんでした。
ところがいち早く火縄銃に目を付けた武将がいます。
織田信長です。

戦国の世の戦い方に火縄銃を用い、大きく戦い方を変えました。
戦いの要所に鉄砲が用いられ、大きな戦果をあげました。
鉄砲の伝来により、全国統一の動きが早まったのは事実です。

武田対織田、徳川連合軍との戦いです。
武田氏は騎馬戦術に秀でており、信長はいかにして戦うか考えました。

そこで思いついたのが、鉄砲の三段構えの戦術です。
通常、火縄銃は、弾を込め、縄に火を点け、火薬に点火することによって発砲します。
つまり一発発砲すると、次の発砲までに時間を要すことになります。
これが火縄銃の最大の欠点でした。
信長は鉄砲隊を3人一組にしました。
こうすることで、発砲する者、弾を込める者、縄に火を点ける者に分けたのです。
発砲した者はすぐ弾を込めに入り、弾を込めていた者は縄に火を点ける。
縄に火を点け終わっていた者は射撃する。

というように間隙(かんげき)を置かずに銃を撃ち続けることに成功したのです。
鉄砲に連射機能を持たれては、さすがの武田の騎馬隊もなすすべがなく、無残に敗退してしまったのです。



キリスト教の伝来と南蛮(なんばん)貿易




ローマ・カトリック教会で免罪符(めんざいふ)が販売されました。
免罪符とは、購入すれば罪が許されるというものです。
腐敗(ふはい)したカトリック教会に対して、反抗勢力が生まれます。
ルターやカルバンです。
彼らはプロテスタントと呼ばれました。
プロテスタント達の反カトリック運動は宗教改革と呼ばれます。
同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントなど、いろんな宗派があるのです。
立場が厳しくなったカトリック派は世界各地に布教活動を始めます。
その布教活動の中心を担ったのがイエズス会であり、アジア方面のイエズス会宣教師がザビエルです。








キリスト教の伝来や鉄砲の伝来。
それらとともに始まったのは貿易です。
マカオに拠点を構えていたポルトガル商人たちも、日本を貿易相手として注目しました。
平戸や長崎で貿易が始まりました。
日本が輸出したものは銀です。
日本が輸入したものは生糸や絹織物といった中国製品の他、毛織物、ガラス製品、時計などヨーロッパの品々もありました。
貿易相手国のポルトガル人やスペイン人は南蛮人(なんばんじん)と呼ばれたため、この貿易を南蛮貿易(なんばんぼうえき)と呼びます。
キリスト教の広まり
ザビエルが布教を開始してから、イエズス会の宣教師たちは次々に日本にやってきました。
貿易の巨額の利益に目をつけた九州の大名の中には、自国に南蛮船を呼び込むために、自らキリスト教徒となる者も現れました。
彼らをキリシタン大名と言います。
ある程度布教活動に成功を収めたイエズス会は、布教の成果を示すため、キリシタンとなった者達をローマ教皇のもとへ連れていきました。
彼らはヨーロッパで熱烈な歓迎を受けました。
彼らは、天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)と呼ばれる4人の少年達でした。
伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノです。
カタカナは洗礼名です。

鉄砲とキリスト教が伝わった背景を、復習しましょう。