ロシアの社会主義革命

ここでは資本主義と社会主義の違いをしっかり確認しましょう。
資本主義路線を取る国が多い中、ロシアはなぜ社会主義国家となったのかを理解しましょう。
資本主義と社会主義





すべての人も物も、国家に帰属するとするのが社会主義です。
会社も工場も、そこから得た利益も、すべては国家に帰属するのです。
そして国家の管理の下、利益は平等に賃金として労働者に分配されていきます。
そこには資本家が立ち入る隙がありません。
全て国が管理するからです。
利益は平等に分配されます。
国家の管理の下、全ての人を平等とする思想を、社会主義思想と言います。





社会主義の社会では、国家が何をどのくらい生産するか決めます。
そして得られた利益は、労働者に平等に分配されます。
しかし、もし自分は一生懸命働いているのに、怠けている人と給料が一緒だとどうでしょう?
きっと馬鹿らしくなります。
体が弱い人などを助け合うためには良いことかもしれませんが、怠けている人は論外です。
社会主義に限界を感じてしまうのは、おおよそそういう部分です。
人が働く意欲を失くしては、経済の発展は望めません。
経済が発展しなければ、国家もまた衰退していきます。




通常の社会では、社会主義が成り立つことは難しいです。
なぜなら、人間には欲があるからです。
誰よりも得をしたい、誰よりも楽をしたい、誰よりも認められたい。
そのような欲にかられて生きている以上、社会主義が成り立つことは非常に難しいです。
誰もが他人を思いやる心を持ち、行動出来る人によって成り立つ社会。
そのような社会であれば、社会主義は成立すると言われています。
マルクスが主張する社会主義とは、恐らく今の人類のレベルでは到達できない理想郷(ユートピア)です。
これを共産主義(きょうさんしゅぎ)と言います。

ロシア革命






欧米列強に資本主義体制が確立していく中、ロシアにも産業革命が起こりました。
ロシアにも資本主義体制が浸透しつつあったのです。
当時、ロシアは皇帝による絶対王政の国でした。
ロシアもまた、帝国主義政策をとり、植民地を求めました。
それがロシアの南下政策であり、東アジア進出です。
しかし、ここでロシアにとって運命の出来事が起こります。
日露戦争の敗北です。
日露戦争の敗北によって、ロシアは東アジア進出を諦めます。
その後、方針変更して目指したのがバルカン方面です。
ところがバルカンでのサラエボ事件がきっかけに第一次世界大戦(1914)が始まってしまいます。
日露戦争の敗北、第一次世界大戦への介入。
労働者達の怒りは、やがて社会主義運動となり打倒王政へと向かうことになります。
これがロシア革命の始まりです。
ロシア革命は厳密には日露戦争最中の第一次ロシア革命(1905年)と、第一次世界大戦中の第二次ロシア革命(1917年)にわかれます。
中学生の歴史教科書では、社会主義の革命政府が誕生した1917年をロシア革命としています。






ソヴィエト社会主義共和国連邦の成立

戦争によって物価が上がり、なんとパンの値段は5倍にまで膨れ上がりました。
「パンと平和」を求める民衆に、国王軍は銃弾を浴びせました。
これに怒りを持った民衆は武装蜂起し、国王ニコライ2世は退位させられます。
その後、ロシアは王政が倒れ、ロシア共和国となります。
ところが新しく共和国となっても、戦争を継続しようとする政府の姿勢に批判が起こりました。
そのような時、現れたのがレーニンです。




レーニンの社会主義政府は、次々と社会主義思想を実現させる行動を起こします。
銀行や鉄道、工場などを国有化し、土地を農民に分配しました。
社会主義革命を成功させたロシアに、周辺諸国は警戒を強めました。
資本主義体制の下、経済を発展させ植民地政策をとる各国内に、社会主義革命が起きれば、国家の転覆になりかねません。
どの国も最大限の警戒を行いました。
イギリス、フランス、アメリカ、日本などは、革命の影響を恐れシベリア出兵を行い、革命への干渉戦争を行いました。
しかし、ロシアは勝利し、ロシア周辺の社会主義共和国(ベラルーシ、ウクライナ、ザカフカースなど)とソビエト社会主義共和国連邦を成立させました(1922年)。
ソ連の誕生です。

スターリン独裁と計画経済

ソ連は、まず欧米諸国と渡り合える国力を身に着けなければなりませんでした。
レーニンの後に指導者となったスターリンは、五か年計画を打ち出します。
スターリンの計画的な経済活動と、独裁により、着々とソ連は国力を伸ばしていくことになるのです。

しかし、このスターリンの非情な独裁によって、ソ連国内では多くの死者が出ました。
スターリンに興味のある方は、以下の記事も参照してください。


