ヨーロッパのアジア侵略
キーワードは植民地(しょくみんち)です。
なぜヨーロッパ諸国は競って植民地獲得に乗り出したのでしょうか。
植民地とは何か
ヨーロッパ諸国は市場や資源の供給地として植民地獲得に乗り出しました。
イギリスを例に説明します。
インド産の綿織物はイギリス国内でよく売れました。
美しく、その軽さ故にイギリス国内で大人気となった綿織物。
イギリスは綿織物をインドから輸入するのではなく、自国で生産しようと試みました。
結果、綿織物の大量生産に成功しました。
それを可能にしたのが産業革命です。
次にイギリスが考えたことは、大量に生産した綿織物をいかにして売り裁くかです。
なんとイギリスは、元々綿織物の生産地であるインドで販売し始めたのです。
手作業ではなく、機械式に大量生産を可能にしたイギリスの綿織物は、非常に安価でした。
インド国内でも、安い綿織物は飛ぶように売れるようになります。
イギリスは、インドから綿花などの原料(資源)を安く仕入れ、機械式で綿織物を大量生産し、それらをインドに輸出したのです。
つまりインドは、イギリスにとって安い資源の供給地であり、製品を売る市場(しじょう)でもあるわけです。
このような安価な資源の供給地であり、製品を売る市場でもある場所を植民地と言います。
ヨーロッパ諸国は、莫大な利益を求めて植民地獲得に乗り出しました。
そこで目を付けられたのが、資源も豊富で人口も多いアジアの国々だったのです。
ヨーロッパ諸国と植民地との争い
アヘン戦争
ここでイギリスが目をつけたものがアヘンでした。
アヘンはけしの実から作られる麻薬です。
アヘンは一気に清国内に広まりました。
こうなればもう手をつけられません。
麻薬は一度手を出せば中毒性があるため、清国内ではアヘンが飛ぶように売れました。
本来、綿織物を直接清に輸出できれば良かったのですが、清は頑なに貿易港を広州1港に制限しました。
そこでイギリスが思いついたのが、イギリスの綿織物をインドへ輸出、インド産のアヘンを清へ輸出するというものでした。
この三者の貿易を三角貿易と言います。
イギリスの思惑は成功します。
アヘンが清国内で爆発的に売れ、インドから税を徴収していたイギリスは大儲けでした。
南京条約で、清は香港島(ほんこんとう)をイギリスに譲り渡し、さらに2100万ドルの賠償金を支払わされることになりました。
広州(こうしゅう)、福州(ふくしゅう)、厦門(アモイ)、寧波(ねいは)、上海(しゃんはい)の5港を開港すること。
公行という貿易独占業者を廃止し、自由な貿易を行うことを認めさせました。
この混乱に乗じて、イギリス、フランスは再度清を攻めました。
清はさらなる貿易の自由化やキリスト教の布教を認めざるを得なくなりました。