ヨーロッパのアジア侵略
ヨーロッパのアジア侵略
中学歴史定期テスト対策の第37回目です。
産業革命を成し遂げたヨーロッパ諸国は、こぞってアジア侵略を始めました。
軍事力に勝るヨーロッパ諸国は、アジア方面へ植民地獲得に乗り出したのです。
教科書は152P~153Pです。
キーワードは植民地(しょくみんち)です。
なぜヨーロッパ諸国は競って植民地獲得に乗り出したのでしょうか。
植民地とは何か
まず植民地(しょくみんち)について説明します。
ヨーロッパ諸国は市場や資源の供給地として植民地獲得に乗り出しました。
イギリスを例に説明します。
インド産の綿織物はイギリス国内でよく売れました。
美しく、その軽さ故にイギリス国内で大人気となった綿織物。
イギリスは綿織物をインドから輸入するのではなく、自国で生産しようと試みました。
結果、綿織物の大量生産に成功しました。
それを可能にしたのが産業革命です。
次にイギリスが考えたことは、大量に生産した綿織物をいかにして売り裁くかです。
なんとイギリスは、元々綿織物の生産地であるインドで販売し始めたのです。
手作業ではなく、機械式に大量生産を可能にしたイギリスの綿織物は、非常に安価でした。
インド国内でも、安い綿織物は飛ぶように売れるようになります。
イギリスは、インドから綿花などの原料(資源)を安く仕入れ、機械式で綿織物を大量生産し、それらをインドに輸出したのです。
つまりインドは、イギリスにとって安い資源の供給地であり、製品を売る市場(しじょう)でもあるわけです。
このような安価な資源の供給地であり、製品を売る市場でもある場所を植民地と言います。
ヨーロッパ諸国は、莫大な利益を求めて植民地獲得に乗り出しました。
そこで目を付けられたのが、資源も豊富で人口も多いアジアの国々だったのです。
アジアとしてはいい迷惑だな。
インドで安いイギリス製の綿織物が売れるとなると、元々インドで作られた綿織物はどうなるんですか?
当然、売れなくなります。
インドの伝統工芸は大打撃を受けました。
こういうことが植民地となった国々で起こったのです。
ヨーロッパ諸国と植民地との争い
上図は19世紀半ばの欧米諸国のアジア進出状況です。
アメリカのペリーが、黒船に乗って日本にやってきたのもこの頃です。
植民地側はおとなしく従うしかなかったのですか?
日本を例にとると良いでしょう。
日本は植民地にこそされませんでしたが、ペリーの来航であっけなく鎖国政策は終了します。
確かに。
アジアの国々と欧米諸国の国力の差は歴然すぎました。
これは軍事力をとってみてもです。
欧米が強すぎて、従わざるを得なかった・・・。
これが産業革命なのです。
産業革命を成し遂げた国と未着手の国々。
この差は非常に大きいのです。
それでも、先ほどの綿織物の話とか、インド国民も納得できませんよね?
とうとうインド国内でも反乱が起きました。
インド兵から始まった反乱は、一般人や王族まで巻き込み、大反乱が起こりました。
これをインド大反乱(1857年)と呼びます。
おお!それでどうなったの!?
あっけなくイギリスに鎮圧されてしまいました。
そ、そんなに強いのか・・・。
その後、インド皇帝は退位させられイギリス国王がインド皇帝となります。
こうしてインドを拠点に、イギリスの世界進出が活発化して行くことになります。
こうした反乱が各地で起こります。
アヘン戦争
イギリスは綿織物を清(中国)にも輸出しようと考えていました。
しかし、清は貿易港を広州1港に限定していたため、イギリスの思うようにはいきませんでした。
ここでイギリスが目をつけたものがアヘンでした。
アヘンはけしの実から作られる麻薬です。
アヘンは一気に清国内に広まりました。
こうなればもう手をつけられません。
麻薬は一度手を出せば中毒性があるため、清国内ではアヘンが飛ぶように売れました。
この時のイギリスは相当賢いです。
まずは下の図を見て下さい。
これは三角貿易と呼ばれるものです。
本来、綿織物を直接清に輸出できれば良かったのですが、清は頑なに貿易港を広州1港に制限しました。
そこでイギリスが思いついたのが、イギリスの綿織物をインドへ輸出、インド産のアヘンを清へ輸出するというものでした。
この三者の貿易を三角貿易と言います。
イギリスの思惑は成功します。
アヘンが清国内で爆発的に売れ、インドから税を徴収していたイギリスは大儲けでした。
やるなイギリス。
しかし、イギリスの怖いところは、この先を見据えていたことです。
アヘン中毒者が蔓延した清国内は危機的状況でした。
そこで清政府はアヘンの輸入にストップをかけたのです。
普通はそうなりますよね。
待ってましたとばかりにイギリスは清へ攻撃をしかけました。
これがアヘン戦争(1840年)です。
アヘンで儲けた上に、戦争の口実も得たと言うことですか?
こうしてイギリスは清に勝利し、1842年に南京条約(なんきんじょうやく)を結びます。
南京条約で、清は香港島(ほんこんとう)をイギリスに譲り渡し、さらに2100万ドルの賠償金を支払わされることになりました。
広州(こうしゅう)、福州(ふくしゅう)、厦門(アモイ)、寧波(ねいは)、上海(しゃんはい)の5港を開港すること。
公行という貿易独占業者を廃止し、自由な貿易を行うことを認めさせました。
清もひどくやられてしまったね。
賠償金を払えない清は、国内に重税を課しました。
結果、洪秀全(こうしゅうぜん)率いる太平天国の乱という反乱が起こりました。
清が気の毒ですね。
この混乱に乗じて、イギリス、フランスは再度清を攻めました。
清はさらなる貿易の自由化やキリスト教の布教を認めざるを得なくなりました。
産業革命を行ったか行っていないかで、こんなに差ができてしまうんですね。
清がイギリスに大敗した情報は、鎖国化の日本にも知れ渡りました。
古くから中国は日本にとって最先端を行く大国です。
稲作やお金や仏教や、法律、いろんなことが中国から伝えられたもんね。
その中国が大敗したことで、日本は大きな衝撃をうけました。
そして、忍び寄る欧米の脅威に警戒を強めていくことになります。