世界の宗教のおこり(後編)
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唯一神「ヤハウェ」の宗教
ここでは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の歴史を紹介します。
意外に思われる方も多いかもしれませんが、この3つの宗教は同じ神を信仰しています。
全知全能なるもの、言わば全ての根源であるそのものを神と呼び信仰しています。
その神は「ヤハウェ」と呼ばれます。
3つの宗教が信仰するもの、それがこの唯一神「ヤハウェ」です。
イスラム教では「アッラー」キリスト教では「デウス」
ユダヤ教では「アドナイ」や「エホバ」と呼んだりします。
呼び方が違うだけで信仰の対象は唯一神「ヤハウェ」なのです。
では、イエス・キリストやモーセやムハンマドとは、一体何者なのでしょうか。
この人達は、預言者(よげんしゃ)です。
唯一神「ヤハウェ」の教えを伝えるために、この世に誕生した者達。
それが、モーセ、イエス・キリスト、ムハンマドです。
さて、ここでイエス・キリストがなぜ迫害され、とうとう処刑されるまでに至ったのか。
それは、まさに預言者と神の子としての認識の違いから起こった出来事です。
同じ神「ヤハウェ」を信仰していながら、イエス・キリストはユダヤ人から迫害されました。
キリスト教とイスラム教も同じ神「ヤハウェ」を信仰していながら相容れない関係にあります。
元は同じ唯一神「ヤハウェ」を信仰するそれぞれの宗教ですが、争い事が起きる理由。
それはイエス・キリストを神の子と見るのか、ひとりの人間としての預言者と見るのかの違いが、大きな原因と考えられます。
宗教誕生の歴史
イエス・キリストを神として見るか、人間として捉えるのか。
ここが大きな争点となります。
言うなれば、ユダヤ教のモーセ、イスラム教のムハンマドといった預言者たちと同じ立場であるはずのイエス・キリスト。
そのイエス・キリストが別格の神の子として讃えられる。それが大きな火種となるのです。
しかし、これは宗教上の判断が介入するため、何が正しいとは明言できません。
キリスト教徒からすれば、イエス・キリストは神の子なのです。
しかし、他の宗教からすればただの預言者でしかない。
ましてや、ユダヤ教からすれば、長い歴史の中からぽつんと登場したイエス・キリストを、神の子として認めるわけにはいかなかったのです。
わかりやすく、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教を誕生の時系列を追って説明していきます。
3つの宗教の中で、最も早く(古く)誕生したのはユダヤ教です。
ユダヤ教の聖典は聖書(旧約聖書)です。
この聖書(旧約聖書)はイスラエルの民の歴史が記されています。
神が世界を創造し、人類の祖先アダムとイヴが造られたことやノアの箱舟伝説など、一度は耳にした方も多いでしょう。
ユダヤ人は迫害を受ける歴史を歩んできました。
近年ではナチスによるホロコーストなどがあります。
古くはエジプト王からの迫害。
モーセが脱エジプトでユダヤ人を導き、紅海を二つに割いた伝説などが有名です。
そんなユダヤ人の中にある希望の光、それが聖書の中で予言されているメシア(救世主)の出現だったのです。
ユダヤ人が待ち望む(メシア)救世主
迫害の歴史の中でユダヤ人が待ち望んだもの。
それが救世主(メシア)の登場です。
そうしたさなか、ベツレヘムのナザレと言う町にイエス・キリストが生まれたのです。
幼いころから奇跡を起こすイエスのことを、多くのユダヤ人が救世主(メシア)の出現と思ったのです。
しかし、結局イエス・キリストはユダヤ人により罪を着せられ、処刑されてしまいます。
ユダヤ人は自分たちの救世主であるはずのイエス・キリストを処刑に追い込みました。
なぜこのようなことが起きたのでしょうか?
イエス・キリストの誕生
紀元1世紀頭に、ナザレと言う田舎町に生まれた子がいました。
イエス・キリストです。
イエスは幼いころから数々の奇跡を起こし、いよいよ聖書(旧約聖書)で言うメシア(救世主)の出現とささやかれました。
しかし、ユダヤ人にとって救世主であるはずのイエスは、やがてユダヤ人に訴えられ、十字架を背負わされゴルゴダの丘で磔(はりつけ)になり亡くなります。
なぜこのようなことが起きたのでしょうか。
それこそが、イエス・キリストを神の子と見るか預言者と捉えるかの違いでした。
ユダヤ人には選民思想(せんみんしそう)と呼ばれる考え方があります。
旧約聖書によれば、ユダヤ人は神との契約により選ばれし民です。
よってユダヤ教の教えはユダヤ人こそが神に認められた民族であるという考えなのです。
ところが、イエスキリストの考えは万民(ばんみん)を救うと言うものです。
「人種を越え貧しい者も救う」それがイエス・キリストでした。
ユダヤ人だけではなく、万民を救うのです。
ユダヤ人にとってのメシア(救世主)は言わばユダヤの民に安住の地を約束してくれる存在です。
むしろ選民思想に対し否定的なイエス・キリストは、ユダヤ人の期待したメシア(救世主)像とは全く異なった存在だったのです。
救世主、そして神の子を名乗るイエス・キリストをユダヤ教徒は迫害しました。
イエス・キリストは当時のローマ皇帝からも認められず苦難の道を歩みます。
ユダヤ人により反逆者としてとして訴えられたイエス・キリストは、ゴルゴダの丘で十字架に磔(はりつけ)にされ亡くなりました。
その後イエス・キリストが復活した話は有名な話です。
突拍子もない話なので真実か虚偽かはわかりませんが、イエス・キリストは信者の間の心に今なお生きていることは確かです。
そう解釈することで、見事にイエス・キリストは復活したと言えるのではないでしょうか。
イエスの死により全ての希望が失われれば、キリスト教はこれほど多くの人達に広まることはなかったでしょう。
肉体としては死しても、心の中には蘇り、今なお生きている。
それがイエス・キリストの復活ではないかと私個人的には考えています。
キリスト教の誕生
イエス・キリストはユダヤ人として生まれましたが、ユダヤ人主義の選民思想に疑問を持ちました。
万民を救うことこそ、イエス・キリストが生涯をかけて貫いた思想です。
その模範となる行動を弟子たちがまとめたものが新約聖書であり、キリスト教なのです。
しかし、ユダヤ教徒からするとキリスト教はユダヤ教から派生した異端の宗教です。
さらに、キリスト教徒はローマ皇帝からも迫害されます。
皇帝崇拝を否定する宗教として、危険視されたのです。
そんな苦難の道を経ましたが、キリスト教は根強く広がっていきます。
キリスト教の勢いに圧倒され、とうとうローマ皇帝もキリスト教を公認するに至りました(313年ミラノ勅令)
キリスト教を弾圧するよりも、上手く利用したほうが良いと考え始めたのです。
そこからキリスト教は全世界に発展し、現在人口は22億人の世界最大の宗教となっています。
ユダヤ人にとっては聖書はひとつしかありません。
キリスト教にとっても、教典は聖書です。
これらを区別するために、ユダヤ教では旧約聖書、キリスト教ではイエス・キリスト誕生以後の聖書を新約聖書と呼ぶのです。
ただし、区別するためだけの呼び方であり、ユダヤ教徒にとっては旧約聖書も新約聖書もありません。
聖書は聖書なのです。
同じ聖書なのに不思議ですね。
新しい宗教イスラム教
イスラム教のおこりは、比較的新しく、西暦600年代のことです。
ユダヤ教からキリスト教が派生し、イエスの処刑後、キリスト教がローマ国教として認められる。
その約200年後のおこりなので、いかに新しい宗教であるかがおわかりでしょう。
それでは、イスラム教の歴史を見ていきましょう。
かつてアラビア半島では、アラブ人たちが遊牧生活を営んでいました。
やがてアラブ人の生活に大きな変化が表れます。
ビザンツ帝国とペルシアの戦いによりシルクロードが分断されてしまったのです。
結果、商人たちはアラビア半島を経由して東西を行き来することになりました。
当然アラビア半島も賑わいを見せ、商売を営むアラブ人が増えてきました。
メッカやメディナは貿易都市として発展し、次第にアラブ人の中にも貧富の差が出てきたのです。
そのような中、570年頃メッカにてムハンマドは生まれました。
ムハンマドは商人として各地を周りました。
そして各地の激しい貧富の差を見ているうちに、この状況をなんとかしなければならないと考えるようになりました。
ムハンマドが40歳頃の出来事でした。
彼が瞑想をしていると、大天使ガブリエルが現れたそうです。
ガブリエルから神の啓示を受けたムハンマドは、自らが最後の預言者として自覚します。
ユダヤ教で言うアブラハム、ノア、モーセ、キリスト教のイエス、そしてムハンマド。
彼らは唯一神「ヤハウェ」の預言者たちです。
ムハンマドは「アッラー」(ヤハウェ)を唯一神とするイスラム教の布教を始めました。
イスラム教の教えに貧しいアラブ人たちは共感し、次第に教徒も増えていきました。
ところがやはり、時の権力者たちはこれを良しとせず、ムハンマドたちへの迫害を始めたのです。
自らの豊かな生活を脅かすかもしれないイスラム教。その恐れが迫害として表れたのです。
ムハンマド達はメッカより北方に位置するメディナへ移動します。これをヒジュラ(聖遷)と呼びます。
その後ムハンマドはメッカを武力で征服しアラビアを統一しました。
メッカを中心にアラビア半島全体にイスラム教は拡大して行きます。
預言者と神の子</h2 イスラム教とキリスト教の間にもイエス・キリストをどう捉えるかの違いが見られます。
イエス・キリストはキリスト教徒の中では神の子、救世主(メシア)の位置づけです。
しかしイスラム教徒からするとイエスは預言者の一人でしかないのです。
預言者ムハンマドと同格なのです。
しかし、一方で神の子と名乗ることは、唯一神「ヤファウェ」と同等の扱いになります。
神の子と預言者では、大きな違いがあります。
預言者は唯一神「ヤハウェ」の教えを伝えるために遣わされた人間
イエスが神の子とすることは、同じ預言者として認められないことなのです。
ただ、気の毒なのは当人たちです。
ムハンマド、モーセ、イエス。
彼らは、ただ目の前にある不幸を、目の前にある弱き人を救いたい一心で行動してきた人だと思います。
何か特別な使命を感じて行動してきた人達ではあるでしょうが、後の世に争いの火種になりたいとは思っていないはずです。
彼らが訴えていたことは何なのか。
それを真に追求していくことが大切なことだと思います。
その後632年にマホメットは亡くなりました。
その際に天使に連れられエルサレムにてムハンマドは昇天したと伝えられています。
第2回に渡り、世界の宗教のおこりを見てきました。
なぜ、お互いの宗教を受け入れられないのか、その疑問が少しおわかりいただけたかと思います。
そしてさらに話をややこしくしている問題があります。
それが聖地パレスチナです。
聖地エルサレムに関しては、以下をご参照ください。
同じ神を讃えているのに争いあう。
これは同じ人間であるのに皮膚の色や国や宗教で争うことと同じことです。
「自分は正しい」
この思考こそが、最も危うい思考です。
この思考から脱却しなければ永遠に惨劇は繰り返されます。
「あの人の言うことも正しいかもしれない」
そう捉える余裕を持ちたいものです。