鎌倉武士の暮らし
鎌倉武士の暮らし
定期テスト対策第10回目です。
72P~73Pです。
鎌倉時代の武士と民衆の生活、そして鎌倉文化です。
つまり、これまでの貴族が中心の生活から、武士が中心となる生活に変わっていく時代でもありました。
例えば、武士と言えばどのようなイメージを持たれるでしょうか?
日々武芸に励み、武士としての誇りを持つ真っすぐな生き方
なんとなくそのような武士道精神をイメージが思い浮かぶと思います。
実は、この武士道精神は鎌倉時代に培われたものなのです。
平安時代までの貴族や寺社のボディガード的存在から、時代の中心となった武士の心意気は大きく変化したのです。
名誉を重んじ、恥を嫌い、武士らしい心構えを弓馬の道(きゅうばのみち)や武士の道(もののふのみち)と言います。
武士の家はとても団結力が強くまとまっていました。
一族の長である総領(そうりょう)が中心に団結していました。
また意外にも武士の家は男女平等でした。
領地は分割相続で女子にも分け与えられました。
女性の地頭(じとう)が誕生した理由もそこにあります。
地頭と領主の争い
地頭(じとう)は荘園や公領の管理、年貢の取り立てなどが主な仕事です。
地方の武士達が地頭になりました。
武士が時代の中心になり力をつけてきた結果、地頭と荘園、公領の領主の間に争いが生じることになります。
荘園は貴族や寺社の土地です。
公領は国の領地。つまり朝廷が管理していた土地です。
地頭はその荘園や公領を管理、年貢の取り立てのために置かれた武士の役割です。
本来ならば、荘園や公領を管理し、その地に住む農民から年貢を取り立て、領主に適正に納めるのが地頭の仕事です。
しかし、地頭は権力が大きくなるにつれ、土地や農民を我が物とするようになってきました。
※1221年、承久の乱後、幕府側が後鳥羽上皇に勝利しました。
その結果、幕府は朝廷の土地を多く奪うことに成功し、地頭の数が増加したのです。
こうして領主と地頭の間には次第に争いが増えていきました。
その争いは、幕府が間に入らなければおさまりがつかないほどになりました。
幕府が取った対応策は「領主にはある程度涙をのんでもらう」つまり地頭に有利な解決策でした。
幕府としては、武士である地頭の支配力を全国に拡大したかったのです。
解決策は、元々の領主の領地の半分を地頭の物とする(下地中分※したじちゅうぶん)
または、地頭がある一定の額の年貢を領主に納めるというものでした。
いずれにせよ、地頭にとって有利な内容でした。
民衆の生活
鎌倉時代は民衆の生活も大きく変化した時期です。
土地開発により農作物の収穫が増え、村が活気づいていったことなどが理由です。
1、農作業に牛や馬が利用された。
2、鉄製の農具が使われるようになった。
3、草や木を焼いた灰が肥料として使われるようになった。
4、二毛作(にもうさく)が行われた。
二毛作とは同じ田畑で米と麦を交互に作ることです。
米の収穫が終われば麦を育てる。
1年を通して、ひとつの田畑をフル活用できるのです。
鉄製の農具や牛馬の利用は、作業効率を大幅にアップさせました。
農作物の栽培が増え、農村は活気づいていきます。
すると賑やかで儲かりそうなところに人は集まってきます。
多くの人が農村に集まり、やがて村は町へと変わります。
貴族が中心の平安時代は民衆の生活は非常に苦しいものでした。
自らの手で田畑を耕し、生きるも死ぬも自分次第のような生活。
まさに個の時代と言えるでしょう。
それが平安時代の民衆の生活でした。
しかし鎌倉時代には村が活気づき、多くの人々が村に集まってきます。
そこで商売を行う者も現れます。
農具を売る鍛冶屋(かじや)衣服の染め物を行う紺屋(こんや)などの手工業者(しゅこうぎょうしゃ)です。
港や道も整備され、行き交う旅人たちの宿屋もできました。
商人や手工業者の住む家も出来、町が出来上がります。
民こうして民衆の団結が強まっていきます。
個から集団への変換期
それが鎌倉時代の民衆の変化です。
旅人や商人が増えたことで、町では定期的に市(いち)が開かれました。
いわゆるマーケットです。
交通の便の良いところには定期市(ていきいち)が開かれ、店先には米や布、魚などが並べられ活気づきました。
市は月に3回開かれました。
鎌倉時代は民衆の変化の様子も問われます。
大いに活気づき、定期市のような楽しみももたらされた。
それが鎌倉時代の民衆の暮らしです。