天皇が2人?おかしくない?
天皇が2人?おかしくない?
定期テスト対策第13回目です。南北朝の動乱と室町幕府です。
ページは78P~79Pです。
南北朝時代とは、前代未聞の天皇が同時に2人存在することになった時代です。
実は、室町幕府の初代将軍足利尊氏(あしかがたかうじ)は、南北朝の統一を果たせず亡くなっています。
統一したのは、尊氏の孫、第3代将軍の足利義満(あしかがよしみつ)です。
鎌倉幕府を倒すことに成功した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、天皇中心の新しい政治を始めました。
これを建武の親政(けんむのしんせい)と言います(1333年)
長らく、武士に政権を奪われていた天皇は、ここぞとばかりに天皇中心の政治に戻そうとします。
ところが、あまりにも急激な変化に不満が爆発しました。
貴族を重んじ、武士を否定するやり方に武士の不満が爆発したのです。
鎌倉幕府を倒すために、武士の足利尊氏の力を借りた後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
しかし、武士を軽んじたために、結局足利尊氏らに京を追放されてしまいました。
南北朝の動乱
建武の親政は失敗し、2年ほどで終了します。
ところが、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は執念深い人でした。
なんと奈良県の吉野に逃れ、自らが相変わらず天皇であると主張したのです。
京の都では、足利尊氏により別の天皇が立てられました。
吉野で後醍醐天皇(ごだいごてんのう)がまさかの天皇発言をしたことにより、朝廷が2つ存在することになってしまったのです。
この異常事態は実に約60年も続くことになります。
京都の朝廷を北朝(ほくちょう)吉野の朝廷を南朝(なんちょう)と呼びます。
これが南北朝時代(なんぼくちょうじだい)です。
北朝と南朝をよく整理しましょう。
北朝(京都)が足利尊氏と正統の天皇です。
足利尊氏は北朝の朝廷から征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、京都に幕府を開きました。
南朝(吉野)が後醍醐天皇(ごだいごてんのう)です。
こうして京都に幕府が開かれました。
しかし、日本は南北朝に分裂した状態が続き、幕府はしばらく安定しませんでした。
幕府が安定し、繁栄するのは3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の時です。
室町幕府(むろまちばくふ)
実は室町幕府と呼ばれたのも、第3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の時からです。
京都の室町に御所を建てたことにちなんで室町幕府(むろまちばくふ)と呼ばれたのです。
室町の名前が使われ始めたのは、初代将軍の足利尊氏が亡くなってからなのです。
第3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の功績をおさえておきましょう。
1 南北朝の統一を果たした(1392年)
2 朝廷の権限を弱め、全国を支配する強大な政権を作った。
3 将軍の補佐役として管領(かんれい)を置いた。
4 経済を発展させた。
5 京都の北山に別荘金閣寺(きんかくじ)を建てた(北山文化)
足利義満の最大の功績は、何と言っても南北朝の統一です。
長らく日本が2分(にぶ)された状態に終止符を打ったのです。
日本のトップである天皇が2人存在する。
国内外に混乱を招く、この異常な状態を解決しました。
南北朝統一は1392年のことです。
「1392(いざ!国)まとめて南北朝統一」で覚えましょう。
管領(かんれい)は将軍の補佐役です。
管領は、よく執権(しっけん)と対比されて出題されます。
どちらも将軍の補佐役には変わりありません。
しかし、内容は大きく異なります。
下の図を見比べてみてください。
上が鎌倉時代の執権(しっけん)です。
下が室町時代の管領(かんれい)です。
いずれも将軍の補佐役には変わりありません。
しかし、執権(しっけん)は御家人である北条氏の専門職です。
管領(かんれい)は有力な守護(しゅご)の中から選ばれました。
鎌倉幕府が滅びたひとつの要因は執権の北条氏です。
同じ御家人である北条氏が長く権力を握り、幕府を裏で操ることに多くの御家人は不満を感じていました。
室町幕府の管領は有力な守護から選ばれます。
つまり、無能ならば解除されたのです。
本当に力がある者がなれる。それが管領です。
執権も管領も将軍の補佐役である。
執権・・・鎌倉時代 北条氏の専門職
管領・・・室町時代 有力な守護から選ばれる
幕府の仕組み自体は、鎌倉時代と室町幕府ではそれほど変わりはありません。
しかし、鎌倉時代には京都の監視をするために六波羅探題(ろくはらたんだい)があります。
室町幕府は京都にあったため、京都の監視は直接行えます。
そのため六波羅探題(ろくはらたんだい)は実質なくなりました。
代わりに鎌倉の有力な武士達を見張り、支配するために鎌倉府(かまくらふ)が置かれたことをおさえておきましょう。
ちなみに六波羅探題は何がきっかけで置かれたか即答できますか?
1221年承久の乱ですね。
後鳥羽上皇の反乱です。
これがきっかけに鎌倉幕府は京都の監視を強化するために六波羅探題を置いたのです。
経済の発展も義満の大きな功績です。
土倉(どそう)や酒屋を保護し、税収によって幕府の財政を豊かにさせました。
土倉(どそう)とは質屋(しちや)さんです。
質屋は客の大切なものを預かりお金を貸す仕事です。
約束の期限までにお金を返さなければ、代わりにその大切なものを弁済の代わりにしてしまうものです。
京都でお金の貸付を行っていた土倉や酒屋を義満は保護しました。
保護してあげる代わりに税を徴収し、ぞの税によって幕府の財政は潤っていったのです。
守護大名(しゅごだいみょう)の登場
鎌倉時代、そして室町時代を経て、守護(しゅご)の権力が強まります。
そしてとうとう国司(こくし)の力をしのぐまで成長していきます。
特に彼らは守護大名と呼ばれ、各国を支配するようになります。
国司(こくし)は奈良時代の律令制度に基づき置かれた役職です。
国ごとに置かれ、兵の統率や税の徴収、戸籍をまとめるなどの仕事にたずさわりました。
都(みやこ)から派遣される貴族が任につきました。
鎌倉幕府の武家政権になってからは、有力な御家人が守護として国に派遣されます。
※守護の設置は、源頼朝(みなもとのよりとも)が武士の力を全国に及ぼすために朝廷に認めさせたものです。
守護は、元々は各地の治安維持、つまり警察の役割を果たしていました。
国司が国を統治し、その下で守護が警察として働くというイメージです。
これは室町幕府になっても変わりはありませんでした。
しかし室町時代になり、守護の権限が強化されると、守護は各地の豪族を従えるようになります。
こうして国司は弱体化し、守護が各国で力を持つようになります。
こうして力を持った守護は守護大名と呼ばれるようになります。