中学歴史定期テスト対策

遣唐使、やめてもいいんじゃね?

遣唐使、やめてもいいんじゃね?

奈良
定期テスト対策5は教科書の46Pから49Pです。
天平文化、平安京、遣唐使の廃止までとなります。

天平文化(てんぴょうぶんか)は奈良時代特有の文化です。
特徴は、仏教唐の文化の影響を強く受けた文化です。

奈良時代の次は平安時代です。
現在の京に都を移されました。それが平安京(へいあんきょう)です。

奈良時代には、遣唐使がたびたび唐に派遣され、唐の文化を日本に持ち帰りました。
しかし、平安時代に入ると、唐の力の衰えもあり、とうとう遣唐使が廃止されます。
遣唐使の廃止の理由、そして廃止後、日本に起きた変化
この2点をおさえることで、テストの得点は大幅にアップします。

天平文化(てんぴょうぶんか)

天平文化(てんぴょうぶんか)

唐の律令制度にならい、唐の都(長安)を真似て平城京をつくり、何かと唐にこだわった奈良時代。
当然唐の様々な文化が日本に伝わります。
日本と唐の懸け橋の役を担った(になった)のが遣唐使(けんとうし)です。

当時の危険な航海を乗り越え、遣唐使は唐の様々な文化を日本に持ち帰りました。

特に仏教を厚く重んじた聖武天皇(しょうむてんのう)の時には、唐の文化と仏教の影響を強く受けた文化が栄えます。
これが天平文化(てんぴょうぶんか)です。

聖武天皇が作らせた東大寺の大仏

当時の唐は、ヨーロッパとの交易も盛んに行われていました。
唐の都長安(ちょうあん)とヨーロッパを結ぶ道はシルクロード(絹の道)と呼ばれました。

世界の貿易拠点として賑わっていた唐。
その唐の文化が日本に伝わるということにより、ヨーロッパの文化も日本に流入してくることになります。

遠くペルシャで作られたガラス容器が日本に伝わったのもそのためです。

東大寺の正倉院(しょうそういん)にはヨーロッパや西アジア、インドから伝わった宝物が残されています。
聖武天皇が愛用した宝物も、正倉院には残されています。

鑑真(がんじん)

奈良
奈良時代の日本は荒れていました。疫病(えきびょう)や自然災害、そして治安の問題。
治安の問題というのは、犯罪などの一般人を脅かす問題です。
これらを正すため、聖武天皇は仏教の力に頼りました。

これらの諸問題に対処するため、聖武天皇や、光明皇后(こうみょうこうごう)(※天皇の妻は、仏教の力に頼りました。)
国ごとに国分寺(こくぶんじ)国分尼寺(こくぶんにじ)を建てました。
都には東大寺の大仏を作り、仏教の力で国や民(たみ)を守ろうとしました。

一方、聖武天皇の過剰な仏教保護につけいり、僧(そう)が力をつけていました。
僧は税や刑罰までも免除されるなど、過剰に優遇されていました。

ここで登場するのが鑑真(がんじん)です。
教科書ではさらりと流されてしまう鑑真(がんじん)ですが、当時の唐では相当な修行を積んだ僧です。
本来、正式に僧になるためには、相当の修行を積み、鑑真のような高尚(こうしょう)な僧に認定される必要がありました。
しかし、当時の日本にはそれほどの僧がいませんでした。
税や刑罰の免除の欲しさに頭を丸め僧になる者もいたのです。
これに心を痛めたのは聖武天皇です。
聖武天皇は、当時の偽(にせ)の僧を一新するため、唐から高尚な僧を招こうと考えました。

この僧こそ鑑真(がんじん)です。

貴族と仏教の天平文化聖武天皇 第45代の聖武天皇が治めていた8世紀前半の文化を天平文化と言います。 余談ですが聖武天皇の父は、律令国家の体制を固めた...
奈良
鑑真は厳しい航海の末、盲目(失明)になりながらも日本にたどりつきました。
正しき仏教の教えを日本に伝えるためです。
奈良時代と聖武天皇が、いかに仏教と深い関係にあったかが、おわかりいただけるはずです。
教科書1行では、とても語りつくせない。
鑑真の生涯は非常に波乱の道でした。

桓武天皇(かんむてんのう)と平安京

奈良
鑑真(がんじん)により、正しき仏教が広まりつつあった日本ですが、やはりどうしようもない僧もいました。
自分の利権のみを考える僧や貴族。
その僧や貴族の利権争いにより政治は混乱する一方でした。
そのような時に現れたのが桓武天皇(かんむてんのう)でした。
桓武天皇

聖武天皇は仏教の力で国家を繁栄させようと考えていました。
しかし、それは仏教への依存にもなりました。
仏教に依存し過ぎた聖武天皇。
それにより力を得た僧が勢力を広げていきます。

桓武天皇は、「正しき政治を行うことで国家を繁栄させることができる」と考えました。
仏教に依存し過ぎた体制に終わりを告げるため、都を奈良から引き離す決意をします。

そしてとうとう都は現在の京都へ移されることになります。
まず784年に長岡京へ。
そして794年にはいよいよ平安京へと都が移転します。

794年から1869年の東京都への首都移転まで、京都は日本の政治中心地として栄えます。

桓武天皇はその地であらゆる改革を行います。

貧しい民には兵役の義務を免除しました。
唐の勢力が弱まり、東アジアへの緊張感が緩んだためです。
貧しい民は兵役の義務が解除され、口分田(くぶんでん)の耕作に集中出来るようになりました。

各国の国司へ対する監視を強化し、正しい政治を行うように力を尽くしました。

日本に新たな仏教を取り入れ、仏教と政治の癒着(ゆちゃく)を解消しようと努力しました。

また、東北にいた蝦夷(えみし)を征服し、律令国家に組み入れました。

桓武天皇と平安京遷都奈良から京都へ 奈良時代の天平文化は貴族と仏教を中心とした華々しい国際色豊かな文化でした。 しかし反面、朝廷が仏教に依存した...
奈良
蝦夷は当時東北地方にいた朝廷に従わない勢力です。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が征夷大将軍に任命され、蝦夷討伐を命じられました。
蝦夷の頭領はアテルイと言う男でした。
蝦夷討伐により、朝廷は、東北地方も完全に平定しました。
これにより東北地方も律令国家に取り込むことに成功し、朝廷の権力はより安定しました。

最澄(さいちょう)と空海(くうかい)

奈良
最澄は天台宗(てんだいしゅう)、空海は真言宗(しんごんしゅう)の教えを広めました。
彼らが建てた寺とその場所は定期テストで99%出題されます。
よく確認しておいてください。

最澄と空海

遣唐使(けんとうし)の廃止

奈良
最澄や空海も遣唐使でした。
日本は唐から実に多くのことを学びました。
しかし、やがて唐は衰え、遣唐使の派遣に関しても疑問視する声があがりました。
菅原道真(すがわらのみちざね)

菅原道真は、学問の神様として有名です。
5歳で和歌を詠(よ)むなど、その異才ぶりから幼少期には、神童(しんどう)と呼ばれました。

学者としては異例の出世を遂げた人です。
太政官の中の右大臣にまで上り詰めました。

やがて嫉妬から大宰府に左遷(させん)させられ、無念の死を遂げます。
その後の祟り伝説は有名な話です。

道真は存命中、遣唐使の廃止を訴えました。
道真自身遣唐使として派遣されましたが、唐の衰えぶりを見た道真は「危険な航海を冒してまで唐に渡る必要はない」と判断します。
この道真の進言により、遣唐使は廃止されることになりました(894年)
白紙(894)に返す遣唐使で覚えましょう。

奈良
遣唐使の廃止により、長らく唐の文化に影響を受け続けてきた日本が大きく変わっていきます。
日本独自の文化が生まれていくのです。
これを国風文化(こくふうぶんか)と言います。
重要なところでは仮名文字(かなもじ)の発明があります。
現代の「ひらがな」ですね。