平和絶頂!元禄文化
平和絶頂!元禄文化
中学歴史定期テスト対策の第31回目です。
2回に分けてお送りする、江戸時代の文化。
今回は元禄文化です。
教科書は124P~127Pです。
江戸時代前半の華やかな文化を見ていきましょう。
江戸時代を代表する文化は元禄文化(げんろくぶんか)と化政文化(かせいぶんか)です。
まずは元禄文化を学習していきましょう。
定期テスト対策としては、各文化の代表的人物、作品を覚えることになります。
江戸時代の諸改革のどのあたりで栄えた文化なのか。
それらを絡めていくと、覚えやすくなります。
上方(かみがた)中心の元禄文化
元禄文化は、鎖国体制が完成し、江戸幕府の政治が安定した頃に芽生えた文化です。
京都や大阪(これらを上方と言います)を中心に、財力を持った町人を担い手とする文化です。
江戸ではないんですね。
時代で言えば、4代将軍家綱から、8代将軍吉宗あたりまで栄えた文化です。
吉宗で終わりと言うことは、質素倹約に影響を受けてしまったのでしょうか?
直接ではないにせよ、影響はあるでしょう。
元禄文化は、華々しく、豪華な文化でしたからね。
江戸時代初期の、経済力豊かな時代を象徴した文化でした。
元禄文化の頃は、平和な日々だったんでしょ?
そうなんです。
確かに明暦の大火(めいれきのたいか)といった、不幸もありました。
しかし、戦争がなくなったのです。
これは人類の進歩として、実に大きな一歩です。
江戸時代は、島原一揆以降は大きな戦争が起こることはありませんでした。
これは江戸幕府の国家基盤づくりが優れていたからです。
大名同士の争いがなくなり、日本がひとつの国家として動き出した時代でした。
江戸時代末期にペリーが来航し、日本国内には新たな内戦が始まります。
江戸時代初期と後期を除き、約200年間、戦乱がなかった江戸時代。
そして、経済力豊かだった江戸時代初期。
その時代に芽生えた元禄文化は、どれほど平和的で豪華で活気あるものであったか。
想像するだけで心が躍ります。
日本の伝統的な行事が庶民にも根付いたのは元禄文化の頃です。
正月の雑煮(ぞうに)、七草、節分の豆まき、ひな祭り、鯉のぼり、盆踊りなど。
一般庶民が行事を楽しめるようになりました。
一日の食事も現代は3食が当たり前になっています。
しかし、元禄文化までは一日2食が普通でした。
一日3食が根付いた元禄文化は、ある意味贅沢な文化だったと言えます。
菜種油(なたねあぶら)を用い、行燈(あんどん)を使用するようになり、夜遅くまで起きる習慣がつきました。
それまでは日没とともに寝るという生活が、大げさではなく行われていました。
庶民の衣服にも、友禅染(ゆうぜんぞめ)などが使われるようになりました。
色華やかで、オシャレ感覚が根付いたのも元禄期です。
お正月に節分、ひな祭り。
今では当たり前ですけど、一般庶民はそれすらも楽しめない時代があったんですね。
一日2食は耐えられない・・・。
明かりがなければ、何もできないし。
行燈(あんどん)の発明は、生活スタイルを一新しましたね。
行燈(あんどん)が広まったがために、江戸時代は火事が非常に多かったのも特徴です。
一日3食はある意味贅沢なことでした。
吉宗の質素倹約で2食に戻されましたしね。
「大日本史(だいにほんし)」と呼ばれる歴史書が作成されました。
水戸藩の徳川光圀(とくがわみつくに)が編纂(へんさん)させたものです。
光圀(みつくに)は時代劇の水戸黄門(みとこうもん)さんです。
天下の副将軍ですね。
大日本史は、日本の歴史や万葉集(まんようしゅう)などの、古典の研究が編纂されたものです。
完成はなんと、明治時代に入ってからのことでした。
元禄文化の代表的な人物や作品は以下の通りです。
井原西鶴(いはらさいかく)は小説を書きました。
武士や町人の生活を生き生きと表現しました。
この小説が浮世草子(うきよぞうし)です。
人形を用いた劇、人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)は近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)により、一般庶民にまで広められました。
現代でも人気な歌舞伎(かぶき)も元禄文化の象徴です。
俳諧(はいかい)
の道を全国に広めたのは松尾芭蕉(まつおばしょう)です。
数々の作品を残し、全国を旅した芭蕉は、奥の細道(おくのほそみち)を執筆しました。
大和絵(やまとえ)では、俵屋宗達(たわらやそうたつ)の大胆な装飾画風神雷神図
尾形光琳(おがたこうりん)
は華やかな色彩豊かな装飾画を残しました。
浮世絵(うきよえ)と言えば、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)です。
見返り美人図が有名です。
これらが広く一般庶民にも楽しまれた。
それが元禄文化の特徴です。
一般庶民も楽しめて、戦争もない時代。
平和そのもののような世界だったでしょうね。
一日3食で夜も遅くまで起きてられるなら、俺も行ってみたい。
以上が元禄文化です。
モノの生産方法の変換
江戸時代も初期の頃は、自給自足が主流だった農村。
しかし、次第に農村にも貧富の差が拡大して行きます。
江戸時代には、新田開発が急速に進みました。
こうした中、農民の中でも小作人となり雇われ農民となる者がいました。
一方で地主になる者もあり、雇う側の人間も出てきたのです。
こうして徐々に、農村では貧富の差が拡大していきました。
雇う者と雇われる者
こうした関係から、モノの生産方法が大きく変わっていくことになります。
モノの生産方法は、大きく分けると家内制手工業(かないせいしゅこうぎょう)、問屋制手工業(といやせいしゅこうぎょう)、工場制手工業(こうじょうせいしゅこうぎょう)となります。
これらに共通することは手工業(しゅこうぎょう)、つまり手作業(てさぎょう)です。
そして、やがてヨーロッパで産業革命(さんぎょうかくめい)が始まると、機械式の機械工業が始まることになります。
日本で機械工業が始まるのは、まだまだまだまだ先の話です。
まずは、手工業の歴史を見ていきましょう。
家内制手工業は、完全自己完結型の生産方法です。
自分で原料を仕入れ、製品を作り、販売する方式です。
例えば、大根を育てる、大根を煮る、お惣菜(おそうざい)として売りに行く。
この工程を自分一人で完結します。
原始的な初期の生産販売方法です。
元禄文化が栄えた時期は、まだまだこの原始的な家内制手工業が主流でした。
この家内制手工業は、非常に効率が悪いのです。
生産、加工、販売の3つの工程をすべて自分で完結するからです。
そうか!今だったら鉄を採掘する人がいたとして、その鉄を元にいろんなもの加工するひとがいる。
例えば自動車のフレームになったり。
そして、自動車を完成させて売る人もいるってことだね!
これを完全分業制と言って、とても効率がいいんです。
生産する人、加工する人、販売する人にわかれているんですね。
これを可能にさせたのが、産業革命なのです。
完全分業の機械式生産を取り入れて、大量生産を可能にしたのです。
でも、日本で産業革命が始まるのはまだ先の話なんですね。
話はそれましたが、産業革命の話は忘れてください。
機械式の工業が日本に入ってくるのは、明治時代になってからです。
江戸時代は手工業です。
問屋制家内工業(といやせいかないこうぎょう)とは、問屋が農家に道具や原料を貸付けて、生産されたものを安く買い取り、販売する生産方法です。
わかりやすく言えば、大根を育てる肥料や、農具を問屋が農家に貸付けます。
農家が大根のお惣菜を作ります。
問屋がそれを安価で買い取り、町中で販売し、利益を得ます。
この方式は、分業の第一歩です。
農家は生産と加工だけに専念できます。
問屋は出来上がった生産物をさらに高く売れば利益になります。
農具の仕入れとか、販売がなくなった分、農家は楽になりますね。
問屋は農具の貸し出しとか、販売に専念できるから楽ですね。
それです!人間はいかに楽をしていくか。
その思想がこれまで人類を成長させてきた証なのです。
楽をする=分業、そして手工業から機械式の生産へ。
それこそが明治時代に始まる産業革命なのです。
なんか興奮してんな。先生。
続いては工場制手工業(こうじょうせいしゅこうぎょう)です。
簡単に説明すると、金持ちが労働者を雇い、工場で働かせることです。
この金持ちを資本家(しほんか)と言います。
言葉だけ覚えておいてください。
ここで完全に雇う側、雇われる側に分かれることになります。
金持ち(資本家)が労働者を一か所の工場に集めて、製品を作らせます。
そして販売して利益を得る。
この工場制手工業はマニュファクチュアと呼ばれ、化政文化の頃に盛んになりました。
日本がマニュファクチャ、工場制手工業が発展した頃、ヨーロッパ諸国では産業革命が始まっていました。
だいぶ・・・遅れているということですよね?
かなりの遅れです。
日本は手作業、ヨーロッパは機械式で大量生産ですからね。
それが黒船の来航で決定的になったんですね。
技術の違いを、日本は見せつけられてしまったんですね。
外国と国交を閉ざす、鎖国政策を貫いていた結果です。
江戸時代の生産方式で覚えることは3つです。 家内制手工業、問屋制家内工業、工場制手工業(マニュファクチャ)。 全て江戸時代は手工業です。 同時期にヨーロッパでは産業革命が始まり、機械式の大量生産が行われていたことを覚えておいてください。 鎖国を貫いた江戸幕府は、結局は世間知らずの時代遅れとなってしまったのです。 ペリーの来航により、日本は決断の時を迫られることになります。 鎖国を貫くか、国を開くか。
以上、元禄文化とマニュファクチュアでした。