近代国家の仲間入りを目指して
近代国家の仲間入りを目指して
中学歴史定期テスト対策の第42回目です。
国内での近代化は果たしつつあった日本。
しかし、国際的にはどうでしょうか?
欧米諸国に認められなければ近代国家の仲間入りとは言えません。
岩倉使節団は日本の近代国家仲間入りを認めておらうために、欧米諸国へ旅立ちます。
教科書は166P~169Pです。
明治時代になり、新政府はあらゆる改革に着手しました。
それが明治維新です。
しかし、明治維新は日本国内の改革にすぎません。
一番の課題は、欧米諸国に認められる近代国家になることです。
欧米諸国に認められなければ、不平等条約も改正できず、真の近代国家とは呼べません。
さあ、ここから明治新政府はどのようにして近代国家の仲間入りを目指すのか。
岩倉使節団は、まさにその第一歩を踏み出すのです。
岩倉使節団(いわくらしせつだん)
欧米の社会や暮らしはどのようなものなのか、実際に知ることは明治政府にとってとても重要なことでした。
そして、不平等条約を改正することは近代国家の仲間入りを目指す日本にとって、悲願のことでした。
岩倉使節団は、岩倉具視(いわくらともみ)を全権大使とし、木戸孝允(きどたかよし)や伊藤博文(いとうひろぶみ)、大久保利通(おおくぼとしみち)などの政府有力者からなる欧米視察団です。
目的は、欧米の社会や暮らしを直に見ること、そして不平等条約の撤廃です。
正直、出発前の明治政府は、楽観視していたと言えます。
確かに国内の改革は順調に進み、明治維新は成功に終わったと言えるでしょう。
しかし、それは国内のことにすぎないのです。
いかに欧米諸国に日本の強さを見せつけるか。
それを欠いたままの使節団の出航でした。
使節の全権大使岩倉具視(いわくらともみ)は、ちょんまげのまま欧米視察に出発します。
しかし、帰国時にはちょんまげはなくなり、ザンギリ頭になっていました。
これが意味することがわかりますか?
ちょんまげが恥ずかしかった?
まさにそれです!しかし、ちょんまげは侍(さむらい)の魂です。
言わば日本の文化です。
自分が誇りを持っていれば、恥ずかしいも何もないはずです。
それ以上に、ちょんまげをやめなければならない理由があった?
自分一人がちょんまげと言う恥ずかしさではなく、欧米でちょんまげでいることは、すなわち時代に取り残されている感マックスだったのです。
岩倉具視(いわくらともみ)のちょんまげ話は有名です。
明治維新を成功させた明治政府の全権大使として、岩倉具視は絶対の自信を持ち欧米視察へ出航しました。
しかし、いざ欧米を目の当たりにすると、いかに日本が遅れた国家かを痛感するのでした。
暮らし、技術、政治、全てが進んだ欧米。
視察の道中、とうとう岩倉はちょんまげをやめる覚悟を決めます。
「なにもかもが遅れている。」
岩倉が悟ったことでした。
ちょんまげをやめて、ザンギリ頭にする。
岩倉の、新しい決意の表れでした。
そんなに日本の生活と違いがあったんですね。
表向きの暮らしは欧米化した日本。
しかし中身は伴っていなかったのです。
アメリカでは、国民の代表者である大統領が国家を統治し、法整備が整えられていました。
日本は、天皇が主権とは言え、しっかりとした法整備がなされているわけでもなく、言わば明治政府の手探り状態の政治が行われていました。
議会制度も法整備も整っていない日本。
これではまともに近代国家の仲間入りなど果たせません。
課題が多いね。
視察の目的に、不平等条約の改正もありましたが、各国はまともに扱ってくれませんでした。
日本が近代国家の仲間入りを果たしたとは、とうてい言えなかったからです。
岩倉さんのちょんまげか。
ちょんまげも相当バカにされたようですが、それ以上に議会制度や法整備が整っていない国家は、近代国家として認められなかったのです。
落胆したていた岩倉使節団を救ったのが、ドイツのビスマルク宰相(さいしょう)です。
「不平等条約を改正したいならば、近代国家の仲間入りを果たしたいならば、強くなれ」
それがビスマルクの助言でした。
欧米諸国に頭を下げて仲間入りを果たすのではなく、欧米諸国に劣らないほどの強い国家となり実力を認めさせる。
それが近代国家の仲間入りを果たす、最短の道だと教え込まれたのです。
使節団としては失敗に終わりましたが、それ以上の成果を得て、一同は帰国しました。
強い国家を作る。
その方向性が定まったことで、明治政府が進むべき道が明確になったのです。
朝鮮支配か国内充実か
岩倉使節団には、明治政府の主要な人物たちがいました。
伊藤博文(いとうひろぶみ)、大久保利通(おおくぼとしみち)、木戸孝允(きどたかよし)などです。
ところで一方、使節が欧米に滞在している間、明治政府内にはお留守番役がいました。
西郷隆盛や板垣退助(いたがきたいすけ)です。
欧米視察組とお留守番役の間では、次第に温度差が生まれていきました。
その結果、征韓論(せいかんろん)という主張が、お留守番役側から出されることになります。
元々、明治新政府の朝鮮半島に対する外交姿勢は一致していました。
それは、朝鮮に新しく国交を結ばせようとするものです。
当時、朝鮮は鎖国を行っていました。
鎖国を貫くことで、近代化が遅れる。
これは日本が身を持って知ったことです。
朝鮮の近代化が遅れると、日本には困ることがありました。
それは、大国ロシアの南下政策です。
「朝鮮には、なんとしてもロシアに対する防波堤になってもらいたい。」
そのためには、朝鮮に鎖国をやめさせ、近代化を推し進める必要があったのです。
ところが一方で、朝鮮は日本を見下していました。
欧米列強に尻尾を振り、鎖国をやめた弱小国。
それが朝鮮の日本に対するイメージです。
朝鮮は日本と国交を結ぶつもりは、さらさらありませんでした。
そこで日本が考えたことは、古来より朝鮮の君主的な存在である中国と対等の条約を結ぶことでした。
中国と対等ならば、朝鮮も日本に従うだろうという考えでした。
こうして結ばれたのが日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)です。
しかし、それでもなお、朝鮮が国交を開くことはありませんでした。
こうした中、朝鮮を武力で開国させようと主張する人達が現れます。
それがお留守番役の板垣退助や西郷隆盛らであり、彼らの主張こそが征韓論(せいかんろん)と呼ばれるものです。
欧米視察組の岩倉使節団は、欧米社会の進化ぶりに圧倒されて帰ってきました。
ちょんまげやめたくらいだからな。
ビスマルクにアドバイスを受けて、まずは国を強くしなければならない、となったんですよね。
そのためには憲法の整備を行い、軍事力を強め、不平等条約を解消する。
欧米と肩を並べることで、真の近代国家の仲間入りを果たせると考えたのです。
先生が言う温度差と言うのは。
わかりました。
まずは国力を高めようとする欧米視察組と、武力で朝鮮を開国させよう(征韓論)とするお留守番役との温度差ですね!
そのとおりです。
結果、西郷や板垣は、視察団の大久保利通や伊藤博文らと衝突し、政府を去ることになってしまいます。
欧米を目の当たりにしてきた人達には・・・勝てないよね。
こうして明治政府は、本格的に富国強兵と殖産興業政策を推し進めていくことになります。
すべては不平等条約撤廃のためです。
その後、明治政府は朝鮮に対し、開国するよう交渉を重ねました。
しかし、話はうまく進みませんでした。
結局、日本は武力で朝鮮を開国させ、日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)を結びました。
内容は、朝鮮国内で日本が領事裁判権を持つなど、不平等な内容でした。
日本は、欧米から不平等条約を押し付けられました。
今度は日本が朝鮮に押し付けた形になります。
歴史は繰り返す・・・・か。
鎖国を貫く国と近代化を推し進める国。
力の差は歴然としてしまいます。
強い者に都合よく支配されたくなければ、自分も強くならなくてはならなかったのです。
まさにビスマルクの言葉通りですね。
国境と領土の確定
話は変わりますが、現在の日本の領土が確定したのもこの頃です。
下の図を見てください。
1875年、千島・樺太(ちしまからふと)交換条約をロシアと結び、ロシアに樺太の領有を認める一方、千島列島を日本の領有にすることが決まりました。
北海道や沖縄も入ったんだね。
政府は蝦夷地(えぞち)の開拓を進め、農地開墾、鉄道や道路の整備を進めました。
名称は北海道に変わりました。
開拓を行ったのは農業兼業の兵士である屯田兵(とんでんへい)でした
ただ、開拓が進むにつれて、先住民のアイヌの人々は土地を奪われ、漁場を奪われました。
文化や風習を否定され、日本人との同化政策がとられました。
1879年には、琉球藩を廃止して沖縄県を設置しました。
これは琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)と呼ばれます。
北方領土問題や尖閣諸島(せんかくしょとう)、竹島(たけしま)問題など、現代でも国境に関しては諸問題があります。
ただ、おおむね、日本の姿はこの時期に定まったことを覚えておいてください。