中学歴史定期テスト対策

鳴くまで待ったよ江戸幕府

鳴くまで待ったよ江戸幕府

奈良
中学歴史定期テスト対策の第24回目です。
教科書は112P~113Pです。
徳川幕府の始まりです。

江戸時代に始まる藩(はん)制度を理解しましょう。
江戸幕府は将軍を中心とする各役職をまとめましょう。

徳川家康と江戸幕府成立

豊臣秀吉が亡くなり、とうとう機は熟したとばかりに立ち上がったのが徳川家康です。

豊臣家を守るために、石田三成は毛利輝元などの大名を味方につけました。

しかしここは家康の方が一枚も二枚も上手でした。
三成の挙兵を、大阪城にいる豊臣秀頼への反抗に仕立て上げ、完全に三成を孤立化させました。

元々豊臣家内部から反発を買っていた三成に味方する者は、大谷吉継(おおたによしつぐ)など、ごく少数に限られました。
かろうじて三成に味方した大名たちも、豊臣家と徳川家の行く末を品定めするために参陣しただけでした。

こうして三成と家康は西軍と東軍にわかれ、全国を二分する戦い関ヶ原の戦いが始まりました。

三成方の大半の大名は動かず、静観を保ちました。
いらだつ三成率いる西軍に激震が走ったのはその時でした。

西軍の主力、小早川秀秋が裏切ったのです。
小早川秀秋は豊臣秀吉の親族です。
秀吉の妻、高台院(ねね)の甥(おい)にあたります。
もはや豊臣家親族からも裏切り者が現れ、西軍はボロボロな状態でした。

この小早川秀秋の裏切りを画策したのも家康でした。

関ヶ原の戦いは、三成が完全に家康の手の上で踊らされた戦いでした。
用意周到、そしていざ戦いが始まれば鬼人のような戦い。
それが三河武士たる家康の戦いでした。

関ヶ原の戦いにより三成は敗北し、京にて処刑されました。

関ヶ原の戦いで全国支配の実権を握った徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任命されました。
江戸に幕府を開いた徳川家康。

この江戸幕府は明治時代に移行するまで、260年間と言う長い平和な時代を築くことに成功します。

やまと
いよいよ徳川家康。
やよい
戦も強く、用意周到な準備。
三成としては嫌な敵だったでしょうね。
奈良
秀吉にかわいがられ、豊臣家の中心を担った三成。
味方からも反感を買われ、孤独な人生を歩んだ人でした。
しかし、誰よりも豊臣家を守ろうとした人、それが三成です。
やまと
秀頼が大人だったら、もっと違う歴史になっていたのかな。
奈良
豊臣家の跡取りとして、秀頼は若すぎました。
それを真っすぐに支えた三成。
しかし、その真っすぐさを家康に利用されてしまいました。

大阪冬の陣、夏の陣

奈良
実質的に幕府を開き、権力を手にした徳川家康でしたが、豊臣秀頼が存命であったことは家康の気がかりでした。
成人した秀頼が、徳川家への復讐に立ち上がれば、豊臣方につく大名も現れると考えたからです。
やよい
完全に豊臣家を滅ぼさなければならなかったんですね・・・。
奈良
年寄りの家康に対し、若き力溢れる秀頼。
当然家康は恐れたはずです。
やまと
かといった、秀頼を攻撃する理由もないよね?
奈良
ここで起きたのが、豊臣家の方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件です。
方広寺鐘銘事件

方広寺(ほうこうじ)は元々、秀吉が建立(こんりゅう)した寺です。
地震などで崩壊した寺を、秀頼が再建しました。
その際に鐘(かね)に刻まれた文字が不吉なものであるとして、家康からとがめられたのが事件の発端でした。

国家安康(こっかあんこう)
君臣豊楽(くんしんほうらく)

本来の意味としては、「国家が泰平にあること、そして君主も家臣も共に栄える」といった意味になるでしょう。

しかし、家康は国家安康を「家康の名を二つに切り裂いていて不吉である。」
「豊臣が栄える。」という意味に取れると言いがかりをつけたのです。

この方広寺鐘銘事件をきっかけに、豊臣と徳川の対立は決定的となりました。

豊臣方は、全国から味方する者を大阪城に招集し、家康と戦う準備をしました。
こうして1614年と1615年と2回に分けて行われたのが大阪冬の陣、夏の陣です。

結局、豊臣方は敗北し秀頼と母、淀君(よどぎみ)は燃え盛る大阪城と共に自害して果てました。
ここに豊臣家は滅亡します。

やまと
な、なんかすごい言いがかり・・・。
やよい
秀頼は、若くて何もわからないまま秀吉の跡継ぎということで殺されて・・・。
気の毒です。
奈良
とうとう徳川家の時代がやってきます。
「鳴くまで待とうほととぎす」

長らく時を待ち続けた家康の時代がやってきたのです。

徳川家康の生涯

人質生活の松平竹千代(まつだいらたけちよ)

家康は三河の小大名、松平家に生まれました。
幼名を松平竹千代と言います。

西に織田家、東に今川家に挟まれた松平家は、いずれかに従う他、戦国の世で生きていく術はありませんでした。
竹千代は織田家の人質として迎え入れられました。

この織田家の人質時代に出会ったのが、織田信長です。

信長と竹千代は良き間柄で過ごしたそうです。

ところが、その後今川家の人質となった竹千代。
今度は織田家と敵対することになります。

成人した竹千代は元服(げんぷく)し、松平元康(まつだいらもとやす)と名乗りました。
今川義元の元(もと)の字をもらっていることから、義元から家康への信頼は高かったと推測されます。

そして、家康の運命を大きく変える出来事が起こります。

桶狭間(おけはざま)の戦い

今川義元が、織田信長の奇襲攻撃により敗れた戦いです。

先陣と本陣を大きくわけてしまった義元の一瞬のスキをつき、信長は一気に攻め立てました。
義元は首をとられ、今川軍は総崩れになります。

今川軍の先陣として、行動していた家康は、義元討ち死にの一報を受けます。
家康は好機到来として、三河の本拠地岡崎城に返り咲き、信長と同盟を結びます。

家康の窮地(きゅうち)

その後の家康は、京を目指す信長の背後を守る役割を果たしていきます。
しかし、織田、徳川にとって窮地となる敵が現れます。

武田信玄(たけだしんげん)です。

京を目指し、上洛を起こした信玄が家康の領地へ侵攻してきます。
岡崎城で様子を見ている家康の前を、なんと信玄は横切り進んでいきます。
完全無視の態度でした。

怒りに余った家康は信玄の背後をつこうと打って出ます。
しかしこれは完全に信玄の罠でした。

コテンパに返り討ちにあった家康は、岡崎城に退散します。
有名な三方ヶ原(みかたがはら)の戦いです。

他にも、家康には窮地に立たされる出来事があります。
妻、築山殿と長男信康の切腹です。

謀反(むほん)の疑いをかけられた両名を殺せと信長に迫られる家康。

家康は信長の命に従い、二人を自害させます。
身内を守るよりも、三河に住む家臣、領民を信長の敵に回すわけにはいかない。
苦渋の決断でした。

本能寺の変では、堺の見物に来ていた家康。
明智光秀に命を狙われるも、伊賀忍者の手を借り、伊賀ルートという道なき道を逃走し、奇跡的に本拠の駿府(すんぷ)に帰還しました。
その後、明智光秀を討った秀吉に臣従を誓うと言う形で、秀吉に会っています。

家康、征夷大将軍に就任

長い人質生活、数々の窮地、不服にも秀吉に頭を下げる時期。
家康の人生はとにかく「待つ姿勢」でした。

昨日よりも今日、今日よりも明日。

ただ、それだけを考え時期を待っていた家康。
こうして家康が手に入れたのが武士として最高の栄誉征夷大将軍の地位でした。

鳴くまで待とうほととぎす

家康の性格を良く表した言葉だと言われています。

家康のすごさは、天下をとってからの江戸の街づくり、そして支配体制です。
二度と戦乱は起こさせない
信長の意志を汲み、秀吉、家康へと平和へのバトンタッチは完成されたのです。

江戸時代の幕藩(ばくはん)体制

奈良
個人的に信長、秀吉、家康が大好きなので試験と大きく外れた話をしてきてしまいました。
とても教科書の1,2行で終わらせていいような人達ではありませんのでご容赦ください。
さて、家康の政策を見ていきましょう。
奈良
上記地図からもわかるように、ピンク色が親藩(しんぱん)譜代(ふだい)大名と幕領(ばうりょう)を示しています。
やよい
親藩が徳川家の親戚関係、譜代が関ヶ原の戦い以前から徳川家に味方していた者、幕領は幕府の直接の支配地でしたね。
やまと
ばっちり家康の周りを味方で固めたね。
関ヶ原の戦い以降に味方になった外様は、遠方に追いやられたんだね。
奈良
石見銀山(いわみぎんざん)などの場所も把握しておいてください。
幕府の直轄地にして、貨幣を発行する権利を独占したのです。
奈良
大名の領地やその支配の仕組みを藩(はん)と言います。
大名は、将軍から1万石以上の領地を与えられた者を言います。
奈良
上記は江戸時代の役職です。
特に老中(ろうじゅう)に注意してください。
政治のキーマンです。
江戸時代の諸改革は老中が中心に行っていくことになります。

大名と朝廷の統制

奈良
幕府は武家諸法度(ぶけしょはっと)という法律を定めます。
大名が許可なく城を修理したり、大名同士が勝手に結婚するのを禁止しました。
やよい
大名同士がつながることを恐れたんですね。
奈良
禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)では、天皇や公家の行動を制限しました。
政治に口を出す権限を制限したんです。
京都所司代(きょうとしょしだい)は朝廷の監視をする役職です。
やまと
徹底してるね。家康。
奈良
第3代将軍家光参勤交代を制度化しました。
参勤交代(さんきんこうたい)

大名は1年おきに領地と江戸を往復することになりました。
莫大なカネを大名に使わせ、幕府に反抗させないようにしたのです。
大名行列とは、この参勤交代の風景です。

奈良
以上、江戸幕府の成立と徳川家康のエピソードでした。