幕末を読み解く




老中、水野忠邦による天保の改革のさなか、隣の清(中国)がイギリスとのアヘン戦争に敗れました。
とうとう日本にも欧米諸国の脅威が近づいてきていたのです。
国内では、江戸の3大改革は抜本的な改革には至らず、各地で一揆や打ちこわしが多発していました。
幕府の権威と信用が落ち込む中、薩摩藩や長州藩は、独自の手法で財政を立て直しました。
これらは雄藩(ゆうはん)と呼ばれ、幕府の中でも特に発言力を持ち、一目置かれる存在になります。
1853年、アメリカのペリーの黒船が浦賀に来航しました。
翌年、日本はアメリカの圧力に屈し、日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)を締結(ていけつ)します。
200年以上続いた鎖国体制が崩壊した瞬間でした。

1854年にアメリカと結んだ日米和親条約により、下田と函館の2つの港を開港しました。
この条約によって、日本の鎖国体制が崩壊しました。
問題は1856年にアメリカのハリスと結んだ日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)です。
これは関税自主権(かんぜいじしゅけん)がなく、領事裁判権(りょうじさいばんけん)を認めるもので、不平等条約と呼ばれます。


















なぜ不平等条約を結んだのか








攘夷(じょうい)か開国か








当時、欧米諸国の技術と力を目の当たりにした人々は、到底日本の国力では太刀打ち出来ないと確信し、外国の要望を受け入れ開国するしかないと考えました。
それが幕府であり薩摩藩です。
対して、黒船の話を噂話でしか聞かない人々は、不平等条約により、伝統ある日本を外国人の好きなようにはさせまいとしました。
これが攘夷です。
有名なところでは長州藩、元土佐藩の坂本龍馬などがいます。
そして第121代天皇の孝明天皇もその一人です。
孝明天皇も日本は神の国であるとし、断固外国排除の攘夷を主張します。












