中学歴史定期テスト対策

ドジるな(1467)義政、応仁の乱

ドジるな義政、応仁の乱

奈良
中学歴史定期テスト対策の第16回目です。
教科書は84P~85Pです。

ここでは応仁の乱と戦国大名について学習します。
足利家の力が弱まり、応仁の乱が発生します。
11年にもわたるこの戦乱により、京の都は焼け野原になってしまいます。

その後、力をつけた守護大名や下剋上(げこくじょう)により権力を手にした者達。
彼らは戦国大名(せんごくだいみょう)と呼ばれます。

日本は戦乱の世に入って行くことになります。

応仁の乱(おうにんのらん)

奈良
11年にも渡る戦いが繰り広げられた結果、京の都は焼け野原になってしまいます。
応仁の乱と呼ばれるこの戦いは、将軍の跡継ぎ問題がきっかけに始まりました。
応仁の乱(おうにんのらん)

室町幕府の第八代将軍足利義政(あしかがよしまさ)には嫡子(ちゃくし)がありませんでした。
嫡子(ちゃくし)とは跡継ぎとなる子のことです。
通常は長男が嫡子となります。

足利義政は弟(腹違い)の足利義視(あしかがよしみ)に将軍を継がせようと考えました。
足利義視は出家していましたが、還俗(げんぞく)し将軍跡継ぎの地位を得ました。
還俗(げんぞく)とは、出家していたものが一般人に戻ることを言います。

ところがそんな中、義政の妻日野富子(ひのとみこ)に男の子、足利義尚(あしかがよしひさ)が生まれたのです。

富子は是が非でも我が息子義尚に将軍になってほしいと考えます。
困ったのは義政でした。
弟の義視もわざわざ還俗(げんぞく)までしたので納得しません。

足利義視は室町幕府内で大きな力を持つ、管領(かんれい)細川勝元(ほそかわかつもと)を味方につけました。

日野富子は同じく大きな力を持つ山名宗全(やまなそうぜん)を味方につけました。

こうして将軍家の跡継ぎ問題がきっかけに、全国を東西に分ける応仁の乱へと発展したのです。

やまと
話し合いでなんとかならなかったのかね。
やよい
庶民にしてみたら大迷惑な話ですね。
奈良
将軍足利義政の優柔不断な性格もあり、なかなか話し合いで解決には至らなかったようです。

応仁の乱は、将軍家の跡継ぎ問題がきっかけで始まりました。
東西両陣営のメンバーは覚えてください。
穴埋めで出題されるパターンがあります。

応仁の乱は1467年です。
ドジるな(1467)義政(よしまさ)、応仁の乱で覚えましょう。
実際、義政の優柔不断さが原因で起きた乱とも言われています。

戦国大名の登場

奈良
応仁の乱は結果的にどちらが勝者というわけでもなく、幕を閉じました。
やまと
11年間も戦ったのに!!?
奈良
結局、義政の次の第9代将軍は、西軍の義尚(よしひさ)が就任することになりました。
そして義尚の次の第10代将軍は東軍の義視の息子が就任することになったのです。
やよい
丸く収めたんですね。

グダグダに終わった応仁の乱。
跡継ぎ問題という将軍の身内の問題のために、京の都は焼け野原になりました。

「足利将軍家に、もはや力なし」

事実上、足利将軍家の領地も、京の都とその周辺のみとなりました。
他の領地は武士達に奪われていきました。

力のあるものが上の身分の者に打ち勝ち、勝ったものが正しいとする世の中。
これを下剋上(げこくじょう)と言います。

時は下剋上(げこくじょう)の世、戦国時代に入って行きます。

戦国大名と分国法

やよい
先生、質問なんですが大名(だいみょう)と言っても戦国大名と守護大名がいます。
この違いは何でしょうか?
奈良
田に自らの名前を付けたものを名(みょう)と言います。
この名(みょう)を多く所有している者が大名(だいみょう)です。
奈良
守護(しゅご)は元々鎌倉時代に作られた役職です。
警察などの治安維持が主たる役割でしたね。
やまと
そう言えば守護地頭とかあったね。
奈良
室町時代になると、将軍から守護に任じられた者の中で、地方で力をつけていく者がいました。
元々の治安維持としての役割に加え、多くの名(みょう)を手にした彼らは守護大名(しゅごだいみょう)と呼ばれるようになったのです。
やまと
なるほど。
奈良
鎌倉時代と比べ、室町時代の守護には強い権力が認められていました。
将軍家の力が弱まるにつれ、守護大名の力が強大化して行くことになります。
やよい
では戦国大名とは何でしょうか?
奈良
守護大名は、元々守護であった者がそのまま国を治め、大名となった者です。
戦国大名は、出自がバラバラです。守護大名もいればその家来、または地方の豪族が戦国大名となりました。
これが世にいう下剋上(げこくじょう)です。
戦国大名

室町時代後半、足利将軍家の力が弱まり、地方の豪族や守護大名が力を伸ばしていきました。
守護大名の中には多くの国を持つ者があり、その場合、守護代(しゅごだい)と呼ばれる者が代理人としてそれぞれの国を統治しました。

もちろん守護大名の中にも自ら国を統治する者もいました。
甲斐(かい)の武田家駿河(するが)の今川家などが、それにあたります。

守護大名の中でも力が無く、言葉は悪いですが無能な者は、守護代や家来に取って代わられることもありました。
守護代の中から新たに大名となった者は、越後(えちご)の長尾氏(後の上杉家)越前(えちぜん)朝倉家尾張(おわり)の織田家などがいます。

元祖戦国大名としては、浪人の身でありながら戦国大名にのしあがった北条早雲(ほうじょうそううん)がいます。
元々は油売りの商人でありながら、守護大名を追いだし、あらゆる手段を講じて台頭した美濃(みの)の斎藤道三(さいとうどうざん)、農民の出でありながら着実に出世し、ついには天下人となった豊臣秀吉などがいます。

時には主君をも裏切り、騙し、殺害し自らがトップの座に座ることもあったこの時代。
これを下剋上(げこくじょう)と呼びます。

足利将軍家の力が弱まり、全国各地で領地の奪い合いなどが起こり始めます。
勝つか負けるかのこの時代を戦国時代と呼び、戦国大名たちはそれぞれの野望のために軍備を強化させていきました。

やよい
守護大名は、元々守護であった者達が大名となったもの。
戦国大名は、農民でも商人でも元々家来であった者でも、力がある者は誰にでもなることが出来たということですね。
奈良
そして、戦国大名たちは自分の国を守り、領土拡大のために戦い続けるのです。
城の周辺に家来を集め、商工業に力を入れ発展させました。
彼らを城下町に住ませ、経済を発展させつつ自国の守りも同時に行ったのです。
やまと
い、いよいよ戦国時代が始まるんだね。
戦いの日々、こ、怖い。
奈良
そして、有能な戦国大名は自国の団結をはかるため、分国法(ぶんこくほう)を制定します。
やよい
分国法?

甲斐(かい)の武田信玄は、「けんか両成敗」など、家臣同士の争いを厳しく処罰し、国内をまとめました。
武田信玄の分国法は「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」です。

1、応仁の乱の東西の陣営を覚えましょう。
2、応仁の乱後、将軍家が衰退し、戦国大名が登場します。
 その流れを掴みましょう。
3、戦国大名と守護大名の違いを理解しましょう。
4、下剋上は記述で説明を求められます。説明出来るようにしましょう。
5、分国法の役割を説明できるようにしましょう。