中世~近世

武士の時代の始まり

武士の登場

奈良
さあ、今日から中世時代のお話しに入って行きますよ。
やよい
教科書では数ページですけど、たくさんの出来事が詰まっているんですね。
歴史ってすごいと思います。
やまと
もっといろんなこと知りたい!早くやろう先生!
奈良
歴史に興味があることはとても良いことです。では、始めましょう!武士の活躍です。
なぜ武士が現れたのか

中世の主役は武士です。
その武士達の活躍をこれから見ていくわけですが、そもそも何故武士は出現したのでしょうか?

律令体制の下、税が払えず口分田を捨て逃亡した人達がいました。
その人達は、その土地の権力者や貴族に雇われ、新しい田を造ります。
墾田永年私財法により新しく耕作した田は、自分の物にして良いことになったからです。
このような方法で権力者や貴族は、各地で私有地を拡大して行きました。
これらは「荘園(しょうえん)」と呼ばれるようになりました。

労働力と金さえあれば、荘園はどんどん増やすことが出来ます。
時には、荘園の奪い合いが起こりました。

自らの土地は自らで守るために、貴族が武士となる場合もありますが、
専門的職業として武士になる者もいて、荘園を守る警備の役割として雇われることもありました。

以上が、武士が現れてきた過程です。

10世紀になると、いよいよ各地で武士が成長し始めます。
初めは荘園を守るためであった武士も、いつしか朝廷や国の役人になって、天皇御所の警備、犯罪の取り締まりなどに当たるようになりました。
都では、貴族の屋敷を警備する武士もいました。

奈良
地方の豪族たちも武士になりましたが、中央では、天皇の子孫も武士として台頭し、活躍したんです。
やまと
え!?天皇の子孫が武士!?
やよい
なんだか意外ですね。貴族とかならわかりますけど・・・。
奈良
ただの武士とは違いますよ。
天皇の血を引く武士団、彼らは特別に

源氏と平氏

と呼ばれます。

貴族になる者、武士になる者

天皇に5人子供がいたとします。その中で次期天皇となるのは一人だけです。
その他の4人は、貴族となったり、地方の国司として任務に就く者が居ます。
では、その4人の子がさらにそれぞれ5人ずつ子供を持ったらどうでしょうか?
ますます皇室との関係は薄れて行きます。
貴族として朝廷に仕えても、それほどの出世が望めないのならば、地方の武士として活躍したほうが良いと言う考えも出てくるのです。

源氏と平氏

桓武天皇の子孫で、
高望王(たかもちおう)の血を引くものが平氏
清和天皇の血を引くものが源氏となります。

やまと
平氏も源氏もあの桓武天皇の子孫なんだあ!
やよい
覚えてるの?
やまと
平安京遷都。新しい仏教を取り入れた人!最澄、空海!
やよい
すごい!
奈良
素晴らしいですね!時々過去に習ったことを思い出すことはとても大切です。
それが、確実な知識になりますからね。
やまと
最近、俺褒められること多いな。
奈良
その源氏平氏の名が全国に響き渡った出来事があります。
まずは平氏から見ていきましょう。
平将門(まさかど)の乱

平氏の始祖、高望王は、関東で勢力を作った武士です。
元々関東の役人として赴任した高望王でしたが、武士として新たに自分で富を築き、新たな生き方を目指そうとしました。
そこで関東で勢力を広げ、一族は繁栄していきました。
しかし、領土が大きくなり、一族が増え争い事が起こります。

高望王の孫、平将門は戦上手な上に、領民(りょうみん・自分の治める領地に住む人々)からの評判が良く、他の土地から将門の領地に流れてくる人がいたのです。
それを良しとしない将門のおじやいとこ達が関東の国司を味方につけ、将門との戦になります。
結果、将門の勝利に終わりますが、ここで国司と戦ってしまったことで朝廷を敵にまわすことになってしまいました。

「桓武天皇の血を引いている者として、新皇(しんのう)を名乗り、関東を治めよ」
との菅原道真の霊魂からのお告げがあったと言う伝説があります。
その後押しもあり、将門は、関東で新皇を名乗ります。
言わば、日本の中に関東と言う独立国を宣言したことになります。
これにより完全に朝廷と敵対することとなりました。

しかし、将門はその2か月後、朝廷軍の藤原秀郷(ふじわらのひでさと)に敗北し、亡くなりました。

※藤原秀郷(ふじわらのひでさと)・・・のちの奥州藤原氏を輩出する藤原清衡(ふじわらのきよひら)の先祖とする説がある。

この同時期、瀬戸内海では藤原純友(ふじわらのすみとも)と言う海賊が朝廷を脅かしていました。
元々、藤原純友は藤原道長の子孫でエリート族であり、むしろ海賊を取り締まる側の人間です。
しかし、西日本から朝廷に運ばれる税や物資を、奪い取り、純友は朝廷にとって脅威的な存在でした。

藤原純友が討ち取られなければ、平将門は勝利していたかもしれません。
純友が討ち取られたことにより、朝廷は関東の平将門に兵を集中出来たのです。

この同時期に起きた平将門、藤原純友の乱を、承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱と言います。

※歴史ミステリーの話になりますが、この平将門、藤原純友は実は共謀して国家転覆(てんぷく)を狙っていたとの話があります。
実際同時期に起きた反乱でしたので、相当朝廷は慌てました。
しかし、たまたま同時期であっただけであり、信ぴょう性はかなり低いと言うことです。

奈良
次に源氏の動きです。少し年代は離れます。
前九年・後三年合戦

前九年合戦1051~1062年
坂上田村麻呂の蝦夷討伐の後、東北地方は朝廷により律令体制に組み込まれました。
しかし、時の流れと共に、東北はまた波乱を起こし始めます。
東北は京都から離れすぎているため、監視の目が届きにくいからです。
当時東北にいた豪族の安部氏が朝廷に税を納めないなどの態度をとりました。

朝廷は安部氏討伐のための兵を送りましたが、安部氏の巧みな馬術に苦戦しました。

そこで、朝廷が、頼ったのは源氏でした。
本格的な戦闘集団である武士団に頼ったのです。

結果、1051年に始まった前九年の合戦は、1062年を持って朝廷側の勝利に終わりました。
 
朝廷から派遣された源氏は源頼義(よりよし)、義家(よしいえ)親子です。
ただ、源氏のみの力では厳しい戦いで、同じ東北に勢力を伸ばしていた清原一族の力を借りての勝利でした。
後三年の合戦(1083年~1087年)
今度はその力を貸してくれた清原一族の内部に争いが起こります。

清原一族の跡継ぎ問題、土地の所有問題です。

ここの内乱に力を貸して収めたのが源義家です。
結果、清原清衡(きよはらのきよひら)が勝利します。

実はこの清原清衡は、前九年の役で安部氏に加担し、敗れた藤原経清(ふじわらのつねきよ)の子です。
本来ならば、処刑されるところでしたが、当時清衡は7歳。
さらに母が清原家出身であったため、清原家に養子に入ると言う形で一命を取りとめています。

そしてこの後三年の合戦で勝利した清原清衡は、実父藤原経清の氏(うじ)に戻し、藤原清衡となります。
負けても処刑を免れ、勝って父方の氏を復活させるという、何とも幸運な人です。
 
この藤原清衡こそが、奥州(東北地方)藤原氏の始祖です。

奈良
前九年後三年合戦は詳しく説明すると非常に複雑です。
やまと
う~ん。きよはらきよひら・・・
やよい
ちょ、ちょっと頭の整理が必要ですね。難しい中世・・・。
奈良
ははは。中学生の皆さんは、今日の話はさっと聞いてもらうだけで大丈夫ですよ。
驚かしてすいません。

本日は、少し難しい話になりました。
なぜ、この話をしたかと言いますと、中世は武士が主役であり、その中心が源氏と平氏だからです。
今後、この源氏と平氏の話が中心に進んでいきます。

漠然(ばくぜん)と教科書を追うよりも、
なぜ、世の中に武士が誕生したのか。
なぜ、源氏と平氏がいるのか。
なぜ、源氏と平氏が争うのか。

本日の話を知っていると、今後の話が理解しやすくなります。

平将門反乱は、武士の怖さを朝廷に植え付けました。同時に平氏の名が全国に響き渡ります。

前九年後三年の合戦は、源氏の力を朝廷に、そして東北に知らしめました。

朝廷は、こう思いました。

平氏や源氏の武士たちは、敵に回すと恐ろしいが、味方に付ければ実に頼もしい。

これこそが、今後の歴史を見ていく上で、重要なキーワードとなります。
是非覚えておいてください。

奈良
さて、奥州藤原氏は、岩手県の平泉(ひらいずみ)を拠点に一大勢力を築いていきます。
やよい
藤原清衡さん、ラッキーなだけじゃなくて、すごい人だったんですね。
奈良
ラッキーなだけではこの時代は生き抜けませんからね。
やまと
源氏と平氏と藤原か。どこが一番強いんだろう。
奈良
次回以降、詳しく見ていきましょうね。ひとつのポイントは、藤原清衡は、源義家の力で後三年の合戦を勝利したことです。
源義家は、源頼朝(よりとも)源義経(よしつね)の直接の先祖です。
やよい
鎌倉幕府の人ですね!
奈良
藤原家は、源氏に恩を受けている。これがキーポイントです。
次回は親と子が血を流し争う動乱へと進みますよ。
やまと
よし、よく今日の内容を復習しよう!