モンゴル帝国
モンゴルは中国北方の遊牧民族の国です。
家畜の食料の牧草は、定住すると乏しくなってきます。
乏しくなれば豊富な牧草を求め、また移動して行く移動型の牧畜生活。
それが遊牧です。
モンゴルにはそのような遊牧民族が多数存在していました。
それらを統一したのがテムジンと言う男です。
1206年、テムジンは部族の指導者たちに認められました。
偉大なるモンゴルの統治者大ハーンに選ばれチンギス・ハンと名乗ります。
チンギス・ハンを統治者とする統一モンゴル国。
それがモンゴル帝国です。









第5代モンゴル帝国(元・げん)皇帝
後に元寇(げんこう)と呼ばれる文永・弘安の役で2度日本へ攻め込む。
フビライの時に領土が最大となる。
フビライは、能力のあるものは異教徒であろうが異国人であろうが登用し、国政の重役に就かせました。
これだけ領土が拡大すれば、異文化、異民族を従えなければなりません。
言葉も違えば生活様式も全く違う国々です。
簡単に支配と言うわけにはいきませんでした。
フビライは征服先の民族を上手く活用することで、この問題を解消したのです。
東方見聞録(とうほうけんぶんろく)


マルコ・ポーロはイタリアの商人です。
元(げん)は陸路航路共に整備され、国際交流がとても盛んでした。
元(げん)の首都北京(ぺきん)は各国の商人が行き交い賑わいました。
マルコ・ポーロもそんな商人の一人でしたが、フビライ・ハンに登用されました。
フビライに仕え、自らが歩き見てきた世界の様相を綴りました。
それが東方見聞録です。
東方見聞録の中には日本のことも書かれています。
「はるか東の海にはジパング(日本)と言う国があり、国中に黄金が散りばめられている」
この黄金が何を意味しているのかは不明です。
しかし、当時の人達は黄金に溢れたユートピア(理想郷)だと騒ぎ立て、
いつしか黄金の国ジパングと呼ばれるようになりました。


元寇(げんこう)








元(げん)による2度の襲来を合わせて元寇と呼びます。
1度目の襲来は1274年文永の役(ぶんえいのえき)です。
元(げん)は対馬、壱岐を襲い、博多に上陸しました。
火薬を使った武器に幕府軍は圧倒されましたが、朝鮮半島の高麗との対立が生じ、
元(げん)は早々に引き上げました。
1度目はただの様子見が強い戦いでした。
2度目は1281年弘安の役(こうあんのえき)です。
この時は幕府も用意周到に元(げん)を迎え討ちました。
簡単に上陸させないように博多湾に石を積み重ね防壁を作ったのです。
武士の活躍もあり元(げん)は結局上陸できず、暴風雨により撤退を余儀なくされました。
神風(かみかぜ)の由来はここから来ています。

日本史上初の侵略危機にさらされた日本ですが、幕府と御家人たちの活躍で、難を逃れました。
その後、フビライは日本への侵略は叶わず、息を引き取ります。
79歳の激動の生涯でした。






鎌倉幕府滅亡













後鳥羽上皇の起こした承久の乱は、北条政子の檄により御家人が一致団結し朝廷軍を破りました。
しかし、今回は状況が違います。
幕府のために財を投げうち戦った御家人達。
何も得るものがなく、幕府に対する信頼は崩壊しました。
こうなると簡単に幕府は内側から崩壊して行きます。
後醍醐天皇の完全勝利により、あっけなく鎌倉幕府は滅んでしまいました。1333年のことです。
後醍醐天皇に味方した御家人には、後の室町幕府初代将軍足利尊氏や有力武士の楠正成(くすのきまさしげ)がいます。