日明貿易




14世紀、日本を窮地に陥れた元(げん)が衰え、明(みん)が建国されました。
明は漢民族の国です。
この頃、倭寇(わこう)と呼ばれる中国・朝鮮の沿岸を荒らす海賊が現れました。
明と貿易を行うことで国内を豊かにしようとする足利義満。
この倭寇を取り締まることにより、室町幕府は明と正式に国交を開きます。
日明貿易は対等ではなく、朝貢貿易(ちょうこうぼうえき)と言う形で栄えました。
貢物(みつぎもの)として日本の特産を輸出し、明の皇帝から贈り物をいただく(輸入)と言う形です。
あくまでも対等な関係ではありませんでした。
中国を支配している王朝は、依然として諸国に対して驚異的な存在だったからです。
足利義満は明の皇帝から「日本国国王」と呼ばれました。
当時南北朝の争乱のさなかにあった日本
北朝の足利義満が明皇帝から「日本国王」と認められたこと。
その後いかに北朝有利に物事が進んでいったかは容易に想像できるでしょう。
事実、南北朝は北朝の下、合一されることになります。







惣(そう)と座(ざ)

その地を治める武士や貴族、寺社に税を収めて保護を受けるために組織されました。
例えば、魚売りがいたとします。
税を収めて魚売りの座に入ればその地で自由に魚売りが出来ます。
格安で魚を売ろうとする人間が現れても、武士や貴族が追い出してくれると言う仕組みです。
その地での営業を独占できる仕組み、それが座(ざ)です。
惣(そう)は農民の自治組織のことです。
村のおきてを定め、寄合(よりあい)と言う会議で村の方針を決めました。
惣とおきてにより農民たちは団結を強めました。
やがて村同士結びつき、荘園領主や守護大名にまで抵抗するようになりました。
主な反抗内容は年貢を減らす交渉です。
全国的な凶作で作物がとれず、年貢も払えない。
年貢を払うために金を借りて借金を作ると言う具合に、農民の生活は困窮を極めました。
そこで農民たちは立ち上がりました。これを土一揆(どいっき)と呼びます。
一揆は過激になり、とうとう借金を帳消しにする徳政令まで手に入れます。
農民の力が幕府を動かしたのです。




応仁の乱





第8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)は文化の人でした。
前回の記事室町幕府の仕組みと南北朝合一で紹介した東山文化の銀閣寺は義政が建立させたものです。
事の発端は、この義政の跡継ぎ問題でした。
足利義政は将軍職によりも文化を重んじ、早々と実弟に将軍職を譲る考えでした。
しかし、問題が起こります。足利義政の妻、日野富子(ひのとみこ)に男子が生まれたのです。
当然富子は実の息子に将軍職を継がせようとします。
そこで富子が目をつけたのが有力な守護大名です。
富子は山名持豊(やまなもちとよ)を味方につけました(西軍)
対して、義政の弟側には細川勝元です。管領職です(東軍)
1467年に始まったこの跡継ぎ問題は、応仁の乱(おうにんのらん)に発展しました。
この争いがなんと11年間も続いたのです。20万人の兵が京都で戦を繰り返しました。
結果、京は焼け野原になってしまったのでした。











