鎌倉から室町へ
御家人の活躍により元寇の難を逃れた鎌倉幕府。
しかし、御家人に対する恩賞である土地も金もなかったために、幕府に対する御家人の不満が高まりました。
この御家人達の幕府に対する不満を利用しようとする者が現れました。
第96代後醍醐天皇(ごだいごてんのう)です。
1192年に鎌倉幕府が成立して以来、朝廷は政治の場から遠ざかっていました。
後醍醐天皇はこの機に政治の権限を取り戻そうと動き出したのです。








室町時代を学んでいく上でのポイントです。
1、鎌倉幕府の武家政権時代、天皇は何をしていたのか?
2、なぜ、再び武家政権の室町幕府が誕生したのか?
3、なぜ朝廷が南北朝にわかれてしまったのか?
以上を順を追って解説していきます。

天皇の権威

鎌倉幕府の武家政権時代、天皇は何をしていたのか?
鎌倉幕府は武士によって政治を行う、日本史上初の武家政権です。
それまでは天皇を中心に政治を行っていました。
時に摂関藤原家や上皇による院政などもありました。
しかし、それらはあくまでも天皇の代理です。
政治の権限は、基本的に天皇にあります。
では、その政治権限が武士に移ってしまった後、天皇の立場はどうなったのでしょうか?








幕府がいかに権力を持っても「天皇の権威による任命」
この大義名分がなければ、幕府としての権威も保てない。
古くから日本にはその考えが根付いていました。
魔王と恐れられた織田信長にしても、朝廷まで滅ぼそうとすることはありませんでした。
全てを破壊して一から作り直すよりも、天皇の権威を利用し大義名分を得たほうが国家統一への道はスムーズなのです。
そのことを信長も知っていたのでしょう。
それほど天皇の存在は絶対的なのです。
日本書紀や古事記に見られるように、天皇は古くから神格化されてきました。
古来より人々にとって、天皇とは神そのものだったのかもしれません。







執念の後醍醐天皇
後醍醐天皇は天皇が政治実権を取り戻す日を望んでいました。
そこでチャンスが到来します。元寇です。
元寇による御家人の不満は鎌倉幕府に対する不信感を膨らませました。
後醍醐天皇は幕府に不満を持つ御家人達を味方に引き入れ、討幕(とうばく)計画を進めます。
ところがこの討幕の動きは、京都の六波羅探題により事前にキャッチされてしまいました。
その後、武力衝突まで発展しましたが、後醍醐天皇は敗北しました。
結果、天皇の座をはく奪され、後醍醐天皇は隠岐(おき)に追放されてしまいました。





鎌倉幕府は御家人の足利尊氏(あしかがたかうじ)新田義貞(にったよしさだ)らの活躍で勝利しました。

幕府に敗北した後醍醐天皇は、隠岐に流されました。
全ては収束されたかのように見えました。
しかし、そのような折、後醍醐天皇の耳に嬉しい報告が入ります。
京都の六波羅探題の兵を撃破したとの情報です。
天皇側の武士楠正成(くすのきまさしげ)による活躍でした。









建武の新政







ポイント2と3を一気に見ていきましょう。
なぜ、再び武家政権の室町幕府が誕生したのか?
なぜ朝廷が南北朝にわかれてしまったのか?
建武の新政で天皇主権を取り戻したはずの後醍醐天皇。
しかし、彼の政治のあり方は多くの批判を浴びました。
武家中心の政治に長らく不満を抱き続けていた朝廷。
その結果現れたのが不公平な政治です。
特に武士に対する不公平さと貴族中心とする政治のあり方に、多くの批判が集まりました。




















1、鎌倉幕府の武家政権時代、天皇は何をしていたのか?
2、なぜ、再び武家政権の室町幕府が誕生したのか?
3、なぜ朝廷が南北朝にわかれてしまったのか?