鎌倉仏教





当時、日本は末法思想(まっぽうしそう)の真っただ中でした。
末法思想とは、釈迦が亡くなってから2000年後に世界は乱れると言う思想です。
1052年が末法思想始まりの年とされています。
1052年と言えば、ちょうど前九年の合戦が始まったあたりで、自然災害も重なりました。
そうした中、人々はいよいよ末法思想の時代が到来したと考えたのです。
自分の生きる未来に光を灯そうとする新しい仏教の教えは、そのわかりやすさと相まって、多くの人々の心を捉えていったのです。

浄土宗(じょうどしゅう)の開祖
一心に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」を唱えれば、誰でも極楽浄土へ行けると教える。



浄土真宗(じょうどしんしゅう)の開祖
親鸞(しんらん)は法然の弟子です。
彼は、法然の教えにさらに、阿弥陀如来(あみだにょらい)の救いを信じる心を強めることを説き、浄土真宗を開きました。




時宗(じしゅう)の開祖





日蓮宗(法華宗・ほっけしゅう)
「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」を唱えれば人も国も救われると説きました。





日蓮は結局相手にはされませんでしたが、しばらくして元寇が発生しました。
予言としては当たっていた・・・と言うことかもしれません。
一転して、次は瞑想(めいそう)の世界です。
マインドフルネスが現代でも静かなブームです。
座禅を組み、心を鎮め、悟りを開こうとするものです。
過去や未来に執着せず、「今この瞬間を感じること」
それが瞑想です。
これらは禅宗(ぜんしゅう)と呼ばれました。
禅宗は武士に歓迎され、幕府も保護したほどです。



栄西(臨済宗・りんざいしゅう)道元(曹洞宗・そうとうしゅう)







鎌倉文化








平清盛は、当時中国にあった王朝「宋(そう)」と盛んに交易を行いました。
宋との交易の中で宋銭が日本に輸入されました。
宋銭はとても質が良く、広く国内で使われるようになりました。
奈良時代にも和同開珎(わどうかいちん)と言う日本で初めての貨幣がありました。
しかしあまり活用されることはありませんでした。
貨幣が使用されないと物々交換が主となります。
宋銭が広まったことで、物々交換から貨幣での交換になります。
現代社会の経済活動に大きく近づいたのです。
貨幣に信用が生まれ、全国で使われることになり、定期市は大いににぎわいました。
※臨済宗や曹洞宗などの禅宗も宋から入ってきた新しい仏教です。

PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像





平家物語は盲目の法師により、語り伝えられました。
壇ノ浦の戦いで海に身を投げ命を落とした安徳天皇(8歳)と平家の者達を祀った阿弥陀寺があります。(山口県下関市)、
その阿弥陀寺に芳一(ほういち)と言う琵琶法師が住んでいました。
芳一は、目が不自由でしたが琵琶の腕前はかなりのものでした。
芳一の語る平家物語、特に壇ノ浦の戦いの場面では、誰もが涙を流すほどの腕前でした。
ある夜、阿弥陀時の芳一のもとに、一人の武士がやってきました。
是非、芳一に一族の前で琵琶の弾き語りをして欲しいと頼まれました。
芳一は武士に連れられ、ある屋敷に迎えられました。
屋敷で壇ノ浦の合戦を弾いていると、大勢の人々のむせび泣く声が聞こえてきました。
また来てほしいと頼まれ、芳一は寺に帰りました。
それからと言うもの、芳一は毎晩のようにこっそり出かけていきました。
そんな芳一を不審に思った寺の和尚が後をつけてみると、なんと芳一はたくさんの鬼火に囲まれながら琵琶を奏でているではありませんか。
そして芳一の目の前にあるもの、それは安徳天皇のお墓でした。
芳一は、平家の霊達に琵琶を聞かせていたのでした。
このままでは芳一が危ない。
ある時、和尚は、芳一の体中にありがたいお経を書き綴りました。
和尚は言いました。
「芳一、これでお前の姿は平家の霊には見えない。お前を迎えに来ても、絶対に返事をしてはいけないよ。
平家の者が諦めるまで、ただじっと座っていなさい」
芳一は和尚に言われたとおりにしました。
ある夜、平家の武士が迎えにきました。しかし芳一の姿はどこにもありません。
芳一はじっと動かず息を呑みました。武士の声は怒りに変わってきています。
ここで、ふと武士はあることに気付きました。
なんと芳一の耳だけがしっかりと見えるではありませんか。
実はお経を書いた和尚ですが、芳一の耳にだけ書くのを忘れてしまったのです。
「ならばお前の耳だけでももらっていくぞ」
武士はそう言って芳一の耳を引きちぎり持って帰ってしまいました。
和尚が帰ると、血だらけで倒れている芳一の姿がありました。
耳がない芳一。耳なし芳一として語り継がれる怪談話です。

