暴走する軍部



満州国とは、1931年に満州事変を起こした日本関東軍が建国した国です。
名目上は清朝最後の皇帝であった「溥儀(ふぎ)」を皇帝としていますが、実際は大きく異なりました。
日本関東軍の言いなりになるしかなかった溥儀(ふぎ)。
事実上、満州国は日本関東軍の占領下に置かれたのです。



多くの新聞の支持があったこともあり、満州国へ対する日本関東軍の行動は称賛されました。
長引く昭和恐慌脱出の糸口は、満州にあるという考えから、国民も歓迎しました。
こうした後押しもあり、軍部の間では政党や財閥を打倒し、強力な軍事政権をつくろうとする動きが出てきました。





内閣総理大臣の犬養毅は、関東軍による自作自演の満州事変の報告を受け、暴走する軍部を止めようとしました。
しかし、軍部は犬養の話に聞く耳を持ちませんでした。
「軍は天皇のものであり、政府のものではない」
これが軍部の主張でした。
さらに国内の満州事変容認ムードが後押しし、軍部の動きを止めることは不可能だったのです。

五・一五事件(ご・いちごじけん)





二・二六事件(に・にろくじけん)



1935年には東北地方が冷害に見舞われました。
農作物の凶作や長引く不況により、国民のくらしは非常に苦しいものでした。
これらはすべて、自分のことしか考えていない政治家や軍幹部が原因であるとして、陸軍の青年将校たちが反乱を起こしたのです。
約1400人の兵が反乱を起こし、政府の大臣を襲い、東京の中心部を占拠しました。
「くさりきった政治家たちから天皇陛下をお守りする」
明治時代のような天皇中心の政治を取り戻すこと。
それが彼らの思いでした。
しかし、彼らの思いは届かず、17人の青年将校が銃殺刑で処刑され終結しました。
この二・二六事件以降、軍部はさらに政治に関わろうします。
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)





日中戦争がはじまると、日本は首都の南京(なんきん)を占領しました。
しかし、国民政府は首都を漢口(かんこう)、さらには重慶(じゅうけい)へと移し、アメリカやイギリスの支援を受けながらなんとか戦争を続けていきました。
首都南京の占領の際、日本軍は女性や子供など一般人をも含む多数の中国人を殺害したとされています(南京事件)




中国国民党の蒋介石は、大の共産党嫌いでした。
そのため敵国日本よりも、むしろ国内の中国共産党への弾圧を重視したのです。
しかし、日本の満州国建国により「今は中国国内が団結するときである」との説得(蒋介石は一時監禁された)により、蒋介石は中国共産党と手を組むことを決心します。
この抗日民族統一戦線(こうにちみんぞくとういつせんせん)は日本にとって大きな誤算でした。
そしてもう一つは日中戦争の長期化です。
日中戦争の最中に中国共産党の毛沢東(もうたくとう)は「持久戦論(じきゅうせんろん)」を発表しました。
内容は、「持久戦に持ち込めば日本に勝てる」というものです。
確かに、当時の日本軍は強く勢いがありました。
しかし、いかんせん島国のため資源にも乏しく、特に石油はアメリカからの輸入に頼るしかない状態でした。
国際連盟を脱退し、さらに盧溝橋事件を引き起こした日本に対し、アメリカ、イギリスは大きく反発しました。
このような国際的孤立を深める日本。
さらに資源が乏しい日本が、外国から援助を受けられないことは致命的であるとして、「戦いを長期化すべし」となったのです。




第二次世界大戦開戦



ドイツの連戦連勝により、日本は手薄になった東アジアの欧米植民地へ進出を試みます。
日本の南下政策を受け、アメリカが下した決断は、日本への石油全面禁輸(輸出を禁じる)でした。
アメリカからの石油禁輸により、日本は国家崩壊までのカウントダウンが始まってしまいます。
約2年。
この2年という数字は、当時の日本の石油備蓄量で、海軍が戦い抜けるギリギリの期間でした。
ならばなお、東南アジアの油田は確保しなければならなくなります。
しかし、これ以上戦線を拡大すれば、アメリカとの軍事衝突は避けられません。
日本の出した答えは「アメリカとの開戦やむなし!(やむをえない)」でした。
日本の対外方針が明確になり、1940年、日本は躍進めざましいドイツ、そしてイタリアとの三国軍事同盟を成立させます。
大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)


アジアの諸民族が欧米諸国の支配から独立し、アジア諸民族の共存共栄をはかる。
それが大東亜共栄圏です。
長引く日中戦争に対し、明確な目的をはっきりとさせることで日本国の一致団結を目指し、そして戦争への大義を得ようとしたものです。
以後、この言葉は、戦時中の目的を表す言葉として使われていくことになります。









