日本の産業革命


















日本の産業革命は紡績業、製糸業などの軽工業から始まりました。
紡績業は綿花から糸を作りだします。
こうして作られたものが綿糸です。
紡績機械の導入、昼夜を問わないフル稼業に成功し、大工場が次々に作られていきます。
製糸業は蚕(かいこ)の繭(まゆ)から糸を作りだします。
こうして作られたものが絹糸です。
日本は、日露戦争後に最大の絹糸輸出国となります。
やがて八幡製鉄所が作られ重工業の発展につながっていきます。
重工業の発展が産業革命を一気に加速させます。
軽工業から重工業まで、大量生産が可能になった日本
産業の発展は資本主義経済を生み出します。
そこには労働者と資本家の社会が広がります。
労働者は資本家から賃金を得て働く、それが資本主義経済です。
資本家は利益を得て、さらに労働者を雇い大量生産を拡大して行きます。
これが資本主義体制です。
しかしここで大きな問題が発生します。
貧富の差です。
資本主義の発達により多くの労働者が生まれました。
しかし労働者の労働条件は劣悪でした。
長時間労働は当たり前、そして低賃金。
労働者の不満は高まり、労働条件を改善する運動が全国に広がりました。
それを受けて、政府は12歳未満の労働を禁止したり労働時間の制限を定めた工場法を制定しました(1911年)
しかし、労働者の暮らしや労働環境はあまり改善されませんでした。
こうした中、日本でも社会主義思想が成長していきました。



資本家の中でも特に様々な業種(金融、鉱業、貿易)に進出し、日本経済を支配するグループが誕生しました。
一族からなるそれらのグループを財閥(ざいばつ)と呼びます。
三井、三菱、住友、安田などです。
これら財閥は、後に戦争に大きく関わったとして、アメリカGHQにより解体させられます。
財閥は解体されましたが、企業としては残り現代日本の経済に影響を与えています。




足尾銅山鉱毒事件







栃木県日光市に足尾銅山があります。
足尾銅山は幕府直轄地として古くから銅が採掘されてきました。
江戸時代後期には採掘量が激減していましたが、明治時代になると、新たな加工技術により、また採掘量が増加しました。
銅を精錬する際の廃ガスにより、あたりは植林が枯れ果て、ハゲ山が出没しました。
木が育たなければ地盤が緩み山崩れを起こします。
植林が枯れ果て、洪水が起こりやすくなりました。
また河川から田に流れる川水は汚染されていて稲も枯れ果ててしまいました。
川水の汚染は当然漁業にも影響します。
これがいわゆる足尾鉱毒事件と呼ばれるものです。




やがて大きな洪水が発生し、足尾の状況が明るみになります。
そこで立ち上がったのが
栃木県の衆議院議員田中正造(たなかしょうぞう)です。
田中正造は議会で幾度となく足尾の惨状を訴えました。
しかし依然として政府は調査中として取り合う気もありません。
議会では無理だと考えた田中正造は、衆議院議員を辞しました。
そして田中は命がけの行動に出ます。
明治天皇への直訴です。
直訴は結局天皇に届きませんでした。
しかし、下手をすれば死刑にさえ値する田中の行動により、足尾の現状は広く世間に知れ渡るようになりました。
結局、足尾銅山は1973年まで採掘が続けられました。
現在は徐々に足尾の山々に緑が戻りつつあります。



