自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)









西南戦争







西郷隆盛の人柄に魅かれる人間は大勢いました。
実際西郷隆盛が政府を去るときに、西郷を慕って多くの軍人や役人が政府を去っていきました。
多くの者は西郷に期待しました。
大久保利通らの実質専制政治とも言える政治。
そして誇りと生きる術を奪われた多くの士族たち。
きっと西郷は士族たちの希望として立ち上がり、明治政府に反旗を翻してくれるだろうと期待したのです。
しかし、当の西郷にはそのような気持ちは全くありません。
士族の反乱の中で先陣ともいえる佐賀の乱(1874年)が起こった時も、江藤新平らは西郷の奮起に期待しました。
西郷が立ち上がれば全国の士族が反乱に立ち上がるとにらんだのです。
しかし、西郷は立ち上がりませんでした。
国家の内乱は何も生みださないことを知っていたからです。
ところが、明治政府は西郷が存在する限り、士族の反乱は収まらないと判断しました。
そのため政府は西郷を暗殺する計画を練り、鹿児島の軍備弱体化を狙い、裏工作をしかけたりしました。
各地の士族も政府の行動に怒りを爆発させます。
こうして西郷は追い詰められていきます。
本人は戦いを望まなくても、政府からは反乱の首謀者にされ、もはや弁解の余地もありませんでした。
西郷は戦わざるを得ない状況に立たされたのです。
そして1877年とうとう西郷隆盛は鹿児島から挙兵したのです。
最終的に4万人もの軍勢になった西郷の軍
各地の士族は西郷の挙兵に奮起したのです。
こうして発生したのが西南戦争(せいなんせんそう)です。










東京千代田区にある靖国(やすくに)神社
ここは明治維新から日本国家発展のために命を捧げてきた英霊達を祀っています。
西郷隆盛も幕末から明治政府樹立まで多くの功労を残した人でした。
しかし、西南戦争で彼は国家の反逆者にされてしまいました。
そのため西郷隆盛は靖国神社に祀られていません。
代わりに鹿児島には南洲(なんしゅう)神社が建立され、西郷はそこに祀られています。
西南戦争を共に戦った士族たちと共に、日々、のどかに桜島を眺めているのでないでしょうか。


自由民権運動の高まり





国王の力を制限し、議会が政治の中心となるイギリスの憲法を推す大隈重信(おおくましげのぶ)
天皇(皇帝)を中心に強い力でまとめていくドイツ型のビスマルク憲法を推す伊藤博文(いとうひろぶみ)
さらに大隈は国会の早期開設を主張し、伊藤はじっくり憲法と国会のあり方を勉強してから国会を開設しようと言う立場に立ち、対立を深めました。
結局は大隈が政府を去ることになり、伊藤博文の案で国会開設と憲法の原案作りの準備に入って行きました。
10年後(1890年)に国会を開設する約束を国民と約束し、自由民権運動の沈静化を図りました。
これを国会開設の勅諭(こっかいかいせつのちょくゆ)と言います。









