マリアナ諸島の戦い


絶対国防圏とは、太平洋戦争末に定められた日本の重要防衛拠点を線で結んだものです。
このラインを破られれば、日本の本土を守り抜くことも困難になると予想され作られました。
やみくもに引かれたラインではなく、航空機の航続可能距離を考慮し、資源の確保に必要な島々を拠点として想定したものです。





B29は広島に原子爆弾を落とした爆撃機です。
このB29の連続航続距離がなんと約10000Kmです。
マリアナ諸島からだと、ほぼ日本列島すべてを射程範囲とすることができます。
つまりマリアナ諸島陥落=日本本土への空襲が始まることになるのです。


日本軍は、絶対国防圏を死守しようと奮闘しました。
しかし、アメリカの猛攻によりマーシャル、ギルバート、トラック諸島が次々に占領されました。
日本はマリアナ諸島が最後の砦となると見越し、精鋭部隊を配置していました。
しかし、日本は防衛の態勢が整う前に攻撃され収拾がつかなくなります。
航空機、レーダー、全てにおいて最新鋭のアメリカ。
日本はなすすべなく、マリアナ諸島を明け渡すことになります。
時は1944年9月。
第二次世界大戦終結まで1年を切っていました。
戦死者は民間人を含め、日本が約63000人
アメリカ側で約9500人と言われています。
この数字を見ただけでも、いかにアメリカが圧倒していたかがわかります。





東京大空襲









沖縄の戦い







カミカゼ特攻隊

10代後半から20代の若者たち中心に作られた部隊。
彼らは飛行機に乗り、爆薬を積み、沖縄沖に展開する連合国側の艦隊に体当たりをする任務に就きました。
彼らの舞台はカミカゼ特攻隊と呼ばれました。
当然、生きて帰ることはできません。
それでも彼らは国を、そして家族を思い、自ら特攻隊に志願し任務を果たしていきました。
連合国側は、この狂気じみた日本の作戦に驚きを隠せませんでした。
日本は、なぜ敗北を悟りながらもこの作戦を遂行したのでしょうか。
武士の時代から、自ら命を投げうってでも自分の美学を貫く文化。
かつて切腹と呼ばれる日本独特の作法は、確かに存在していました。
それになぞれば、「国のため、家族のためと命を捨て、散っていくこともまたいさぎよし」
と思えたのかもしれません。
しかし、彼らは若かった。
もっともっと生きたかったはずです。
それでも自ら特攻隊を志願した事実。
国は、少しでも敵に損害を与えねば負けを認められない。と考えていたのかもしれません。
純粋に国の方針に従い、家族のためにと散っていった特攻隊の若者たち。
彼らを、ただ「無駄死に」と断じてしまうのは、あまりにも心無いことです。
鹿児島の知覧(ちらん)で見た最後の青空は、どれだけ澄んで見えたことでしょう。
「この空の下、もっと生きてみたい」
彼らは、心の片隅できっとそう思いながら、自らの役目を果たしたのです。
ならば、「この空の下、精一杯に生きる」
それが現代に生きる私たちの役目なのではないでしょうか。

太平洋戦争の終結









日本は8月14日、ポツダム宣言を受け入れる意向を連合国に通知します。
翌8月15日、昭和天皇の肉声により、日本はポツダム宣言を受け入れ連合国に降伏する旨を全国民に伝えました。
これを玉音放送(ぎょくおんほうそう)と言います。
9月2日、日本はポツダム宣言に調印し、第二次世界大戦(太平洋戦争)は終結しました。
この戦争における両陣営の死者数(民間人も含む)は5000~8000万人と言われています。
新たな1歩










