太平洋戦争(後編)
マリアナ諸島の戦い
太平洋戦争の後編を始めます。
まずは、下の図をご覧ください。
黄色の太線は、絶対国防圏(ぜったいこくぼうけん)と呼ばれるものです。
絶対国防圏とは、太平洋戦争末に定められた日本の重要防衛拠点を線で結んだものです。
このラインを破られれば、日本の本土を守り抜くことも困難になると予想され作られました。
やみくもに引かれたラインではなく、航空機の航続可能距離を考慮し、資源の確保に必要な島々を拠点として想定したものです。
ミッドウェー海戦で勝利し、アメリカは勢いに乗っていました。
日本としてはマリアナ諸島(サイパンやグアム)を占領されると致命的になります。
だいぶアメリカが日本に近くなってしまいます。
マリアナ諸島を落とされると、インドネシア方面の日本軍と分断されることになります。
確かに。
しかし、それ以上に厄介なのは、この頃アメリカが開発したB29と呼ばれる戦闘機です。
B29は広島に原子爆弾を落とした爆撃機です。
このB29の連続航続距離がなんと約10000Kmです。
マリアナ諸島からだと、ほぼ日本列島すべてを射程範囲とすることができます。
つまりマリアナ諸島陥落=日本本土への空襲が始まることになるのです。
絶対に死守しないといけない重要地点なんだね。
逆に言えば、アメリカはマリアナ諸島を落とせば勝てると考えていました。
総力をあげてマリアナ諸島攻略を始めます。
日本軍は、絶対国防圏を死守しようと奮闘しました。
しかし、アメリカの猛攻によりマーシャル、ギルバート、トラック諸島が次々に占領されました。
日本はマリアナ諸島が最後の砦となると見越し、精鋭部隊を配置していました。
しかし、日本は防衛の態勢が整う前に攻撃され収拾がつかなくなります。
航空機、レーダー、全てにおいて最新鋭のアメリカ。
日本はなすすべなく、マリアナ諸島を明け渡すことになります。
時は1944年9月。
第二次世界大戦終結まで1年を切っていました。
戦死者は民間人を含め、日本が約63000人
アメリカ側で約9500人と言われています。
この数字を見ただけでも、いかにアメリカが圧倒していたかがわかります。
この頃、ヨーロッパではノルマンディー上陸作戦が始まり、フランスのパリがドイツの占領から解放されました。
すでに1943年には、イタリアは連合国に降伏しています。
三国同盟も日本とドイツのみ・・・。
日本では、サイパンが陥落したことで責任を取り、東条英機が退陣しています。
それでも、日本は戦い続けたんですか?
もはや勝つことは無理だと、軍も政府もわかっていました。
しかし、それでもアメリカ軍に大きな損害を与え、少しでも有利な条件で講和しようと考えたのです。
東京大空襲
1945年3月。
アメリカ軍はサイパンを拠点に本格的な日本本土への空襲を開始しました。
B29を主力に、東京へ焼夷弾(しょういだん)による無差別爆撃を開始しました。
しょういだんって?
焼夷弾は火災を起こさせるのが目的の爆弾です。燃やす薬剤が入っています。
これを無差別に投下されたので、多くの都市が焼け野原になりました。
でも、人も無事ではないですよね・・?
多くの人が焼け死にました。
東京隅田川にかかる言問橋(ことといばし)には多くの人が詰めかけ、行き場を失い亡くなっていきました。
多くの人が川に飛び込み、溺死された人達もいました。
言問橋には、今なお空襲によるものとされる焼け跡が残っています。
どのくらいの人が亡くなったのでしょうか?
約10万人と言われています。
10万・・・。
被害は東京だけではありません。
横浜・名古屋・大阪・神戸なども次々と空襲の被害にあいました。
そして、ほぼ時を同じくして、アメリカ軍が沖縄に上陸しました。
ついに日本国内が戦場となってしまったのです。
沖縄の戦い
アメリカ・イギリス両軍は、日本本土進出への足掛かりとして、沖縄への攻撃を決定しました。
太平洋戦争の最終局面である沖縄戦が始まりました。
沖縄も、やはりひどい有様だったのでしょうか?
沖縄線は太平洋戦争以前に、第二次世界大戦の中でも最激戦地のひとつと言われています。
県内外の出身の日本兵戦死者が約10万人。
一般住民も約15万人。
総数で25~26万人の犠牲者(日本側)が出たと言われています。
い、一体何人死んでしまうの・・・?
戦死者の中には多くの女学生もいました。
戦場において、彼女たちは看護師として働き命を失った人もいたのです。
彼女たちは「ひめゆり学徒隊」と呼ばれていました。
日本はもうボロボロだったと思います。
それでもまだ戦い続けたんですか?
世界最大を誇った「戦艦大和(やまと)」が艦隊の生き残りと共に沖縄に特攻をかけます。
しかし、連合軍の集中砲火を浴び、撃沈されます。
そして、世に名高い神風(かみかぜ)特別攻撃隊が編成されることになりました。
カミカゼ特攻隊
日本の「負け」は既に決まっていました。
しかし、それでも日本は戦い続けました。
最後は、特攻隊という自爆捨て身の戦法に身をおきながらも戦い続けました。
10代後半から20代の若者たち中心に作られた部隊。
彼らは飛行機に乗り、爆薬を積み、沖縄沖に展開する連合国側の艦隊に体当たりをする任務に就きました。
彼らの舞台はカミカゼ特攻隊と呼ばれました。
当然、生きて帰ることはできません。
それでも彼らは国を、そして家族を思い、自ら特攻隊に志願し任務を果たしていきました。
連合国側は、この狂気じみた日本の作戦に驚きを隠せませんでした。
日本は、なぜ敗北を悟りながらもこの作戦を遂行したのでしょうか。
武士の時代から、自ら命を投げうってでも自分の美学を貫く文化。
かつて切腹と呼ばれる日本独特の作法は、確かに存在していました。
それになぞれば、「国のため、家族のためと命を捨て、散っていくこともまたいさぎよし」
と思えたのかもしれません。
しかし、彼らは若かった。
もっともっと生きたかったはずです。
それでも自ら特攻隊を志願した事実。
国は、少しでも敵に損害を与えねば負けを認められない。と考えていたのかもしれません。
純粋に国の方針に従い、家族のためにと散っていった特攻隊の若者たち。
彼らを、ただ「無駄死に」と断じてしまうのは、あまりにも心無いことです。
鹿児島の知覧(ちらん)で見た最後の青空は、どれだけ澄んで見えたことでしょう。
「この空の下、もっと生きてみたい」
彼らは、心の片隅できっとそう思いながら、自らの役目を果たしたのです。
ならば、「この空の下、精一杯に生きる」
それが現代に生きる私たちの役目なのではないでしょうか。
特攻による戦死者は、海軍2531名、陸軍1417名、計3948名です。
※特攻隊戦没者慰霊顕彰会の記録
太平洋戦争の終結
特攻隊の捨て身の攻撃もむなしく、沖縄戦は連合国側の勝利に終わりました。
また沖縄戦のさなか、1945年4月にはドイツのヒトラーが自殺。
5月にはドイツが連合国側に降伏します。
日本だけが、孤軍奮闘(こぐんふんとう)し、戦い続けていました。
一体どこにそんな力が・・・。
そして連合国側は1945年7月にポツダム宣言を発表。
日本に降伏を促しました。
でも、それも受け入れなかったんですね。
そこでとうとう運命の8月6日がやってきます。
広島に原子爆弾が落とされました。
それでもまだ・・・。
8月8日にはソ連が日ソ中立条約を破り、満州に進出してきました。
これはソ連がイギリスとアメリカとの間で交わしたヤルタ会談での秘密協定です。
ソ連の第二次世界大戦参入により、日本を降伏させようとしたのです。
でも、まだ降伏しない・・・。
8月9日、長崎に原子爆弾が投下されます。
とうとう日本はポツダム宣言を受け入れ降伏する意向を固めました。
日本は8月14日、ポツダム宣言を受け入れる意向を連合国に通知します。
翌8月15日、昭和天皇の肉声により、日本はポツダム宣言を受け入れ連合国に降伏する旨を全国民に伝えました。
これを玉音放送(ぎょくおんほうそう)と言います。
9月2日、日本はポツダム宣言に調印し、第二次世界大戦(太平洋戦争)は終結しました。
この戦争における両陣営の死者数(民間人も含む)は5000~8000万人と言われています。
新たな1歩
長い戦いでした。
開国から100年足らずで、様々なことがありました。
急ぎ過ぎた日本は、少し疲れていたのかもしれません。
こんなにたくさんの人が亡くなっていたんですね。
知りませんでした・・・。
命・・大事にしなきゃな。
日本は、よく立ち直れましたね。
そこが日本人のすごいところなんですよ。
生まれながらにしての勤勉気質。
戦後、すぐに高度経済成長を迎え、世界でも類を見ない先進国になっていくのです。
諦めない精神。
そうです。絶望感に襲われるでもなく、また新たな1歩を踏み出せる勇気。
それが日本人の心には生き続けているのです。
途中、すごく苦しかったです。
でも、日本が降伏した話を聞いた時、なんだかほっとして涙が出ちゃいました。
きっと、当時の日本はみんなが苦しかったんだなと思いました。
「なぜ、あの時こうしなかったのか」
こういう意見は、冷静に物事を見れるようになった、後日よく使われる言葉です。
「なぜ、早く降伏しなかったのか」
「なぜ、特攻隊などという無謀な作戦に出たのか」
しかし、これらは当事者にしかわからないことです。
私たちにできることは、無下に批判するのではなく、事実を受け止め、いかにこれからの時代に生かしていくかです。
俺も、先生から習ったことを生かしていけるように頑張るよ。
とても嬉しい言葉です。
次回でいよいよ私の授業は最後になります。
最後まで全力で行きましょう!またお会いしましょう!