日露戦争後の日本

1 日本が欧米列強の仲間入りを果たした。
2 ロシアのアジア撤退により、イギリスがロシアと協調体制をとった。
3 アジアの民族運動が活発化した。











欧米列強の仲間入り

アメリカのポーツマスで調印された条約、それがポーツマス講和条約です。
1 韓国における日本の優越権を認める
2 旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道利権を日本に譲る
3 北緯50度以南の樺太(からふと)を日本に譲る
4 沿海州・カムチャッカ半島周辺での日本の漁業権を認める
以上が、ロシアが日本に対して認める内容です。













ポーツマス講和会議で賠償金が得られないとわかった国民たちは、日比谷公園に集まり条約反対の集会を起こしました。
この集会はやがて暴徒化し、大臣官邸や交番などが焼き討ちされた事件です。
日清戦争以上に戦費がかかり、犠牲も多く払った戦いだっただけに、国民の怒りはすさまじいものでした。
南満州鉄道





三国協商











中華民国の成立
「アジアの民族運動が活発化した」
日露戦争の日本の勝利は、アジアの諸民族に大きな希望を与えました。
長らく占領下にいたアジアの民族たち。
自分たちの力で、民族の独立を果たそうとする思想が芽生えました。
孫文(そんぶん)は三民主義を唱えた中国の革命家です。
孫文は漢民族の独立と近代国家の建設を目指し、辛亥革命(しんがいかくめい)を起こしました。
結果、清は倒れ、南京(なんきん)を首都とする中華民国の建国に至りました。
中華民国は、アジアで最初の共和国です。
臨時大統領には孫文が就任しました。
※共和国・・・多数の人々の意思により政治が行われる制度を持つ国 アメリカ合衆国などが代表例
※三民主義・・民族の独立、政治的民主化、民族生活の安定の3つからなる革命指導理論


日露戦争の最中から、韓国の日本による植民地化は進みました。
対ロシアの防護壁として朝鮮半島は最後の砦だったからです。
しかし、日露戦争後、ロシアの対アジア方針が変更され、ロシアの脅威がなくなった後も日本の支配は続きました。
植民地支配は1945年の日本敗戦まで続いたのです。
日本は韓国の外交権を完全に奪い、韓国統監府(かんこくとうかんふ)を置きました。
初代統監は伊藤博文が就任しました。
1909年には伊藤博文が満州のハルビン駅で暗殺される事件が発生しました。
翌年1910年には日本は韓国を併合します(韓国併合)










