明治維新~現代

明治維新(前編)

王政復古の大号令

https://youtu.be/giqG5q0r-2c
https://youtu.be/oOt13yQuY4o

1867年に大政奉還(たいせいほうかん)が行われ、事実上幕府の政権は天皇に返還されました。
しかし、ただ「返しますよ」と政権を返上したところで、そうそう上手く事が運ぶわけではありません。

長く政治の場から遠のいていた朝廷が、国際情勢も緊迫している中、政権を担当することは非常に難しいことでした。
徳川慶喜はまさにそこに目をつけました。

慶喜の中では、幕府から天皇に政権が移ったとしても、結局は徳川家が政治を担うことになると算段していたのです。

最新鋭の武器を手にしている薩摩と長州。
この2藩による薩長同盟が成った当時、まともにぶつかっては徳川幕府の敗北は目に見えていました。
そこで慶喜が考えたのは、薩長と一戦交えることなく、徳川政権を生かす道です。

薩長とやり合うことなく朝廷に全権限をいったん返す。
しかし、緊迫した国際情勢の中、長らく政権を担当してきた徳川家を朝廷は頼ってくる。
それが慶喜の狙いだったのです。

ところが、事態は慶喜の思惑とかけ離れた方向に進んでいきます。

奈良
薩長を中心として、幕府に代わり新政府が作られました。
これを王政復古の大号令と言います。
やまと
オーセーフッコ?
奈良
薩長の働きかけで、天皇が政権を担当することを大々的に号令したものです。
天皇中心の政治に戻す号令です。
やよい
天皇自ら号令して、薩長が後押ししているとなると、慶喜もうかつに手を出せませんね。
奈良
新政府はさらに徳川家の力を削ぐために、政権だけではなく領地や官職までも朝廷に返させようとしました。
やまと
慶喜としては予想外の展開だったんだね。
奈良
しかし、幕府側もこれに対しては黙っていられませんでした。
とうとう幕府軍も挙兵し、新政府軍と衝突します。
やよい
結局は戦うしかないんですね。
奈良
京都の鳥羽伏見の戦いで幕府軍は新政府軍に敗れます。
その後、新政府軍は北上し江戸城を明け渡させることに成功しました。
やまと
最新鋭の武器には敵わないよ・・・。
奈良
江戸城明け渡し後も新政府は徹底的に幕府軍を追い詰めます。
最終的には函館まで攻め上り、幕府軍を全面降伏させました。
やよい
北海道まで!徹底した戦いだったんですね・・・。
奈良
会津白虎隊(びゃっこたい)の集団自刃など、歴史的な事件が含まれるこの新政府軍隊幕府軍の戦いを「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」と呼びます。

明治維新

奈良
1868年1月、天皇と新政府は新しい元号を発表します。
「明治」です。
やよい
どんどん現代に近づいてきましたね。
奈良
維新とは近代国家への大きな変革を言います。
ここで言う近代化とはすなわち、欧米をモデルとした社会、政治、経済を日本に導入していくことです。
明治維新

江戸幕府を倒して誕生した新政府は、五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)を定めました(1868年3月)
内容は「広く人々の意見を聞いて政治を行うこと」
   「世界から知識を学ぶこと」などです。
この五箇条の御誓文は新政府の方針として、天皇が神に誓うという形で出されました。
続いて江戸は東の京と言う意味で「東京」と改名されました。
そして1869年3月には正式に京から政治機能が移転され、東京は日本の首都の役割を担うことになります。

具体的な明治政府の行った政策は以下の通りです。
1869年「版籍奉還(はんせきほうかん)」
1871年「廃藩置県(はいはんちけん)」
     「解放令(かいほうれい)」
1872年「学生の公布(がくせいのこうふ)」
1873年「徴兵令(ちょうへいれい)」
     「地租改正(ちそかいせい)」

これらの諸改革を通して明治政府が目指したことが、日本の近代化です。
すなわち明治維新です。  

やまと
すごい!こんなにたくさん!
やよい
しかも2、3年の出来事ですよね。国内も混乱したのではないでしょうか。
奈良
混乱は必至です。しかし、明治新政府は急いで改革していかなければなりませんでした。
欧米諸国と肩を並べること。そこから本当のスタートが始まるからです。
やまと
確かに。ずっと遅れを取っていたもんね。
やよい
優秀な方が多かったのですね。
奈良
欧米に肩を並べるほどの国力を身に着けることで、初めて外国と対等の付き合いが出来るのです。
この時点での日本は各国と不平等条約を結ばれていましたね。
この不平等条約の撤廃こそが、まず日本の目指すべき外交問題でした。

明治新政府の改革

奈良
さて、それでは先ほどの明治新政府の改革をひとつずつ見ていきましょう。
版籍奉還(はんせきほうかん)

江戸幕府の支配体制下では、諸藩が実権を握っていました。
将軍はその諸藩をまとめる役割です。
明治新政府下では全ての藩の人民と土地を朝廷に返させました。
これが版籍奉還です。

やまと
なんか、大昔にもあったような。
やよい
律令制度の時じゃないですか?確か公地公民の制!
律令制度の仕組み(後編)律令制度の完成 班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう) デキた♪がどんどん増えていく!小中学生向...
奈良
最終的には天皇を中心とする国家を造る。
それこそが日本としては取るべき姿であったのでしょう。
やまと
ずいぶん遠回りしちゃったね。
奈良
いえ、当時の日本にはまだその準備ができていなかっただけだと思います。
戦い、勝利と敗北、そして変革
様々なことを日本には経験する必要があったのです。
やよい
やっと本当の意味で日本がひとつになる時が来たんですね。
廃藩置県(はいはんちけん)

版籍奉還により、藩の所有していた土地は天皇に返されました。
そして藩の代わりにが置かれました。
大名たちは東京に移住させられ、県には政府から役人が遣わされました。
こうして政府の命令が全国に行きわたるようにしました。
これが廃藩置県です。

解放令(かいほうれい)

江戸時代には「士農工商(しのうこうしょう)」と呼ばれる身分制度がありました。
武士が特に権力を持っていました。

明治以降は「四民平等」の身分制度に変わりました。
公家や元大名は華族(かぞく)
武士は士族(しぞく)
商人や農民は平民(へいみん)にわけられました。

分類はされていますが、これら身分は平等な関係です。

他にも身分制度が撤廃されたことにより自由な結婚や職業も自由に選べるようになりました。
平民にも名字(姓)が名乗れるようになりました。
木の下に住んでいるから木下など。

これら身分の平等や婚姻などの自由化を解放令(かいほうれい)と言います。

学生の公布(がくせいのこうふ)

小学校から大学までの学校制度が作られました。
満6歳以上の男女全てを小学校に通わせることが義務になりました(義務教育)
しかし、授業料が各家庭の負担であったため、初めは入学児童は少ないものでした。

徴兵令(ちょうへいれい)

満20歳以上の男子は、士族と平民の区別なく兵役の義務を負うことになります。
しかし当初は多くの免除規定があり、実際に兵役についたのは平民男子の二男三男達でした。

地租改正(ちそかいせい)

1873年に政府は地租改正を行います。
これは土地の所有者を明確に定め、その土地の価格(地価)を決めます。
所有者と地価は地券に記されます。

土地所有者は地価の3%を現金で納税することになります。
これにより、毎年政府は安定した税収入を得ることが出来、国家財政の安定が図られました。

しかし地租の3%は非常に思い負担であったため各地で地租反対の一揆が発生しました。
これを受けて、1877年に政府は地租を3%から2.5%に引き下げました。

やよい
すごい!こんなにたくさんの改革があったのですね!
奈良
ただ、全てがスムーズに進んだわけではありませんでした。
急進的な国家の改革に国民がついていくのも一苦労だったのです。

明治時代に入り、欧米諸国に追いつこうとする明治新政府はありとあらゆる試みをします。
先に述べた諸改革のみならず、生活スタイルまでも欧米様式を取り入れようとしました。

例えば、侍の象徴であったちょんまげ。
これをスッキリ切り落とすザンギリ頭が流行りました。

明治以降肉食も日本の生活に根付きました。
特に牛を食べる習慣は日本人にはなかったので、当初は多くの人が牛肉を食すのに抵抗を示しました。

道路には電信柱が並びました。
電気信号は文字などを電気信号により送信し、受信側で文字化されて受け取れるものです。
かつては電報、現在ではレタックスなどと呼ばれています。
しかし、一般庶民には「電気信号を相手に送る」という仕組みがいまいち理解されず、実際に電信柱によじのぼり荷物をぶらさげる人が出てきました。
物をぶらさげておくことで、相手側に送られると勘違いする人もいたのです。

やよい
ちょっと笑っちゃいますけど、私も勘違いしちゃうかも。
やまと
いろんなことが一気に変わりすぎて国民もついていけなかったろうね。
奈良
特に元武士達からしてみれば、ちょんまげは命です。
プライドにかけてなかなかザンギリ頭に踏み切れない人もいましたよ。
やよい
鉄道も開通したんですもんね。
奈良
当時は新橋と横浜の間だけでしたけどね。
やがてこの鉄道網が発達して日本全国をかけめぐるなんて想像できなかったでしょうね。
やまと
蒸気機関車か。生で見てみたいな。
奈良
これら明治新政府が行った欧米化による近代化を「文明開化」と呼びます。
やよい
服も西洋風の洋服や帽子、靴。
どんどん現代人のような生活様式になっていくんですね。
奈良
その他、欧米にならって太陽暦を取り入れ、1日を24時間、1週間を7日間にするなど、現代の生活スタイルが始まっていくのです。