大正デモクラシー

※崩御=天皇や皇后が亡くなること。


大正時代を象徴するキーワードは「民主主義(デモクラシー)」です。
憲法を守り、国民の意思を反映させる政治、それが民主主義による政治です。
1890年に大日本帝国憲法が発布されました。
しかし、当時の政治は藩閥(はんばつ)政治と呼ばれ、民主主義とはほぼ遠いものでした。
藩閥政治とは、長州藩、薩摩藩出身により政治を行う、独裁的な政治でした。
民意が反映されない政治に不満を持つ国民たち。
そうした中、起こったのが護憲(ごけん)運動です。
護憲運動とは「憲法を守り、政治を行うことを求める」運動です。
こうした考えが国民にも広まり、当時の藩閥政府首相の桂太郎(かつらたろう)は退陣を余儀なくされました。
1912年のこの運動を第一次護憲運動と呼びます。







政治について同じ考えを持つ者同士が集まり作るグループ。
それが政党です。
民主主義の議会制度では、多数決により法案の決定等を行います。
つまり議席数を多く持つ政党が、議会では有利になり、政治の主導権を握ることになります。
政治を主導する政党を与党(よとう)と言います。
与党の中から内閣総理大臣が選ばれます。
このように政党により政治を行うことを政党政治と呼びます。




国民の怒りが護憲運動を生み、藩閥政治を倒すきっかけとなりました。
それは民主主義による政治を目指すための国民の悲願でもあったのです。
こうした民主主義(デモクラシー)を強く求めた大正時代の動きを大正デモクラシーと呼びます。
第一次世界大戦






イギリス、フランス、ロシアの三国協商。
日本はイギリスと日英同盟(1902年)を結び、日露戦争後、ロシアとは日露協商(1907年)を結んでいました。
これがきっかけで日本は三国協商の中に組み込まれていきます。
第一次世界大戦は人類史上初めての世界大戦です。
きっかけは、スラブ民族の独立運動でした。
バルカン半島を支配していたオスマン帝国が衰退していく中、支配下に置かれていたスラブ民族の間で独立運動が盛んになってきました。
ロシアもスラブ民族です。
バルカン半島に進出をもくろむロシアにとっては、同じスラブ民族の独立運動は好都合でした。
ロシアは積極的に独立運動を支援しました。
同じくバルカン半島に進出を企てているオーストリアは、スラブ民族の独立運動をおさえようとしました。
1914年、オーストリア皇太子夫妻が、サラエボでスラブ系セルビア人に暗殺されました(サラエボ事件)
これを機にオーストリアがセルビアに宣戦布告すると、同じスラブ民族のロシアがセルビア支援のために宣戦します。
サラエボ事件をきっかけにオーストリアとロシアが開戦、三国同盟、三国協商の各国が加わり、第一次世界大戦が始まったのです。





第一次世界大戦が始まると、アジアでの欧米列強の影響力は次第に弱まっていきました。
1915年、その隙をつき、日本は中国に対し21か条の要求を示しました。
1 山東省の権益をドイツから引き継ぐこと
2 旅順・大連などの租借期限、南満州鉄道の期限を99年延長すること
3 南満州などの鉱山の採掘権を日本に与えること
などが盛り込まれた要求の大部分を中国政府は認めました。
清に代わり成立したばかりの中華民国に、要求をはねのける力がなかったのです。

第一次世界大戦は、従来の戦争と大きく異なっていました。
飛行機や潜水艦、戦車などの新兵器が登場し、戦争の激しさはよりいっそう増しました。
機関銃などによりおびただしい死者数を出したのも特徴です。
兵士だけではなく、一般国民も戦争に巻き込まれ国家をあげた総力戦となりました。
大戦における死者数は約1600万人と言われています。
この中には700万人ほどの民間人も含まれています。
これほどの死者を出した戦争は歴史上、類に見ないでしょう。



ベルサイユ条約と国際連盟
1918年、連合国側の勝利で第一次世界大戦は終結しました。
1919年にパリ講和会議が開かれます。
会議の内容は、戦争の責任をドイツに押し付け、ドイツを弱体化させようとしたものでした。
民族自決の原則も主張され、東ヨーロッパで多くの小国が独立しました。
同年1919年、第一次世界大戦の講和条約がフランスのベルサイユで調印されました。
ベルサイユ条約です。
ベルサイユ条約により、ドイツは植民地を失い、巨額の賠償金を支払うことになりました。
また、アメリカのウィルソン大統領により国際平和と国際協調を目的とする国際連盟が発足しました。
世界の国々が武力ではなく、話し合いで問題を解決するための組織です。
常任理事国にはイギリス、フランス、イタリア、日本などが選ばれました。
アメリカ主導で設置された国際連盟ですが、アメリカは国内議会での賛成を得られず不参加となりました。
国際連盟の本部はスイスのジュネーブです。







海軍の軍備制限、太平洋地域の現状維持、中国の独立領土保全の確認を行いました。
アメリカ、イギリス、フランス、日本の間で四か国条約が結ばれ、日英同盟は解消されました。
敗戦国のドイツも国際連盟への加盟を認められました。
こうしてアメリカ主導の下、国際協調の時代がやってきます。

社会運動と普通選挙









関東大震災や第一次世界大戦、護憲運動や女性の社会進出、ラジオの普及など、大正時代は短期間ですが激動の時代でした。
日本はこの後、世界から孤立していくことになります。
なぜそのような道をたどることになったのか。
いよいよ時代は昭和です。
この歴史の物語もいよいよクライマックスです。