激動の大正時代 - 中学生のための、よくわかる歴史
明治維新~現代
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激動の大正時代

yamamira
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大正デモクラシー

第一次世界大戦は1914年に始まりました。
日本ではその直前、1912年に明治天皇が崩御(ほうぎょ)し、大正天皇が即位しました。
大正時代の始まりです。

※崩御=天皇や皇后が亡くなること。

大正時代って、たった15年しかないんだよね。

1912年から1926年の実質15年を大正時代と呼びます。
確かに期間は短いのですが、大正は激動の時代でした。
第一次世界大戦の前の日本の様子を、まずは見ていきましょう。

第一次護憲(ごけん)運動


大正時代を象徴するキーワードは「民主主義(デモクラシー)」です。
憲法を守り、国民の意思を反映させる政治、それが民主主義による政治です。

1890年に大日本帝国憲法が発布されました。
しかし、当時の政治は藩閥(はんばつ)政治と呼ばれ、民主主義とはほぼ遠いものでした。
藩閥政治とは、長州藩、薩摩藩出身により政治を行う、独裁的な政治でした。

民意が反映されない政治に不満を持つ国民たち。
そうした中、起こったのが護憲(ごけん)運動です。

護憲運動とは「憲法を守り、政治を行うことを求める」運動です。
こうした考えが国民にも広まり、当時の藩閥政府首相の桂太郎(かつらたろう)は退陣を余儀なくされました。

1912年のこの運動を第一次護憲運動と呼びます。

天皇の相談役に元老(げんろう)が置かれています。
元老を組織しているのが薩摩や長州出身の人間たちです。
元老が政治を動かしていたと言ってもよいでしょう。

それでいて首相が薩摩か長州出身者だったら、好き放題ですね。

そうした不満の中から「政治は帝国議会が中心となり行うべきだ」という風潮が芽生えます。
民意を政治に反映させるために議会中心の政治を実現させる動きが高まって行くのです。

でも、簡単に元老は権力を放棄しないですよね?
なかなか実現するのは難しいのでは?

ところが、護憲運動の力は相当なものでした。
言論により桂太郎の内閣が倒されてしまったのですからね。

国民の発言が大きな影響力を持つようになったということでしょうか?

民衆の怒りのパワーは無視できないほどに育っていたのです。
こうしてやがて藩閥政治から本格的な政党政治へと、政治のありかたが変わっていきます。

政党政治


政治について同じ考えを持つ者同士が集まり作るグループ。
それが政党です。
民主主義の議会制度では、多数決により法案の決定等を行います。
つまり議席数を多く持つ政党が、議会では有利になり、政治の主導権を握ることになります。
政治を主導する政党を与党(よとう)と言います。

与党の中から内閣総理大臣が選ばれます。

このように政党により政治を行うことを政党政治と呼びます。

薩長による藩閥政治ではなく、本格的な政党政治を実現させたのが原敬(はらたかし)内閣でした。
衆議院で最も議員数が多い政党立憲政友会の政党内閣です。

衆議院議員は国民から選ばれるから、民意を政治に反映させられますね!

薩長独裁が藩閥政治、国民の代表者による政治が政党政治です。
原敬は華族ではない初の平民からの首相でした(平民宰相※へいみんさいしょう)

藩閥政治と政党政治の違いがわかったぞ。

国民の怒りが護憲運動を生み、藩閥政治を倒すきっかけとなりました。
それは民主主義による政治を目指すための国民の悲願でもあったのです。
こうした民主主義(デモクラシー)を強く求めた大正時代の動きを大正デモクラシーと呼びます。

第一次世界大戦

話を少し戻します。日露戦争終結後の各国の動きを思い出して下さい。
ロシアのアジア撤退により、イギリスがロシアと協調体制をとりましたね。

ロシアが東アジア進出を諦め、バルカン方面に進出に方針を変更したからです。

アジアでは対立していたイギリスとロシアですが、バルカン方面では手を組むことになったのですね。

英露協商だったな。

ドイツ、オーストリア、イタリアは三国同盟を結んでいましたね。
この列強同士の関係の中に日本が介入することになります。

ロシアはフランスと同盟していて、イギリスもフランスと同盟していた。
その結果、ロシア、フランス、イギリスは三国協商を結ぶことになったんですね。

イギリス、フランス、ロシアの三国協商。
日本はイギリスと日英同盟(1902年)を結び、日露戦争後、ロシアとは日露協商(1907年)を結んでいました。
これがきっかけで日本は三国協商の中に組み込まれていきます。

第一次世界大戦は人類史上初めての世界大戦です。
きっかけは、スラブ民族の独立運動でした。

バルカン半島を支配していたオスマン帝国が衰退していく中、支配下に置かれていたスラブ民族の間で独立運動が盛んになってきました。
ロシアもスラブ民族です。
バルカン半島に進出をもくろむロシアにとっては、同じスラブ民族の独立運動は好都合でした。
ロシアは積極的に独立運動を支援しました。

同じくバルカン半島に進出を企てているオーストリアは、スラブ民族の独立運動をおさえようとしました。

1914年、オーストリア皇太子夫妻が、サラエボでスラブ系セルビア人に暗殺されました(サラエボ事件)
これを機にオーストリアがセルビアに宣戦布告すると、同じスラブ民族のロシアがセルビア支援のために宣戦します。

サラエボ事件をきっかけにオーストリアとロシアが開戦、三国同盟、三国協商の各国が加わり、第一次世界大戦が始まったのです。

民族と宗教。この問題は現代社会においても重要な問題です。
特に当時のバルカン半島は多くの国や民族があり、争い事が絶えない状況でした。
さらにそれぞれをロシアやドイツ、オーストリアなどが支援しており、一発触発の状態でした。
まさにヨーロッパの火薬庫です。

火薬庫・・・。そこに火種を入れれば、大爆発を起こす・・・。

サラエボ事件が火種でありヨーロッパ中が戦争に巻き込まれていく。
まさに大爆発を起こしたのです。
それが第一次世界大戦です。

と、ところで日本は関係あるの?ヨーロッパの話だよね?

ヨーロッパの戦乱でアジアが手薄になった隙をついたのが日本です。
三国協商に日本が介入したことを理由に、日本は中国に進出します。
中国に駐留していたドイツ軍と戦い、日本は勝利を収めます。

21か条の要求


第一次世界大戦が始まると、アジアでの欧米列強の影響力は次第に弱まっていきました。
1915年、その隙をつき、日本は中国に対し21か条の要求を示しました。
1 山東省の権益をドイツから引き継ぐこと
2 旅順・大連などの租借期限、南満州鉄道の期限を99年延長すること
3 南満州などの鉱山の採掘権を日本に与えること

などが盛り込まれた要求の大部分を中国政府は認めました。
清に代わり成立したばかりの中華民国に、要求をはねのける力がなかったのです。

1917年には、アメリカが連合国側(ロシア、イギリス、フランス、日本)に加わり、大戦に参加しました。
アメリカの参入により連合国側が一気に優勢になり1918年、第一次世界大戦は終結します。

第一次世界大戦は、従来の戦争と大きく異なっていました。
飛行機や潜水艦、戦車などの新兵器が登場し、戦争の激しさはよりいっそう増しました。
機関銃などによりおびただしい死者数を出したのも特徴です。
兵士だけではなく、一般国民も戦争に巻き込まれ国家をあげた総力戦となりました。

大戦における死者数は約1600万人と言われています。
この中には700万人ほどの民間人も含まれています。

これほどの死者を出した戦争は歴史上、類に見ないでしょう。

言葉で言うのは簡単だけど・・・。

1600万人ですか・・・。

これから歴史を学ぶ私たちは、なぜ人間は戦争を起こすのか、そして戦争をやめられないのかをしっかりと考えていく必要があります。

ベルサイユ条約と国際連盟

1918年、連合国側の勝利で第一次世界大戦は終結しました。
1919年にパリ講和会議が開かれます。
会議の内容は、戦争の責任をドイツに押し付け、ドイツを弱体化させようとしたものでした。
民族自決の原則も主張され、東ヨーロッパで多くの小国が独立しました。

同年1919年、第一次世界大戦の講和条約がフランスのベルサイユで調印されました。
ベルサイユ条約です。

ベルサイユ条約により、ドイツは植民地を失い、巨額の賠償金を支払うことになりました。

また、アメリカのウィルソン大統領により国際平和と国際協調を目的とする国際連盟が発足しました。
世界の国々が武力ではなく、話し合いで問題を解決するための組織です。

常任理事国にはイギリス、フランス、イタリア、日本などが選ばれました。
アメリカ主導で設置された国際連盟ですが、アメリカは国内議会での賛成を得られず不参加となりました。

国際連盟の本部はスイスのジュネーブです。

国際連盟によって、少しは平和になったのでしょうか?

アメリカの不参加や、実際に紛争が起きた場合の制裁手段も限られていたためあまり機能しませんでした。

アイデアは良かったのにね。アメリカが参加できなかったのは残念だね。

しかし、アメリカは大戦後一気に経済大国となり世界での発言力を強めていきます。
理由はヨーロッパ諸国が大戦により弱体化したからです。

ものすごい犠牲だったもんね。

人だけじゃなく街並みもボロボロだったでしょうね・・・。

そんなアメリカだからこそ出来たことがあります。
アメリカの呼びかけで行ったワシントン会議(1921年)です。

ワシントン会議


海軍の軍備制限、太平洋地域の現状維持、中国の独立領土保全の確認を行いました。
アメリカ、イギリス、フランス、日本の間で四か国条約が結ばれ、日英同盟は解消されました。
敗戦国のドイツも国際連盟への加盟を認められました。
こうしてアメリカ主導の下、国際協調の時代がやってきます。

国際協調、いい響きだね。

社会運動と普通選挙

いかがでしたか?大正時代は日本も世界も激動でしょう?

すごすぎて・・・言葉も出ない。

みんながみんな必死に生きていこうとしていたんだなと思います。
とても勉強になりました。

最後になりますが、大正時代は女性があらゆる分野で活躍する時代の幕開けでもあったのですよ。
バスガールとして女性がバスガイドさんを行ったり、女性のお医者さん、電話交換手など多くの職業に女性進出が見られました。

今では当たり前だけどね。当時は珍しかったんだろうな。

女性の政治家は誕生しなかったんですか?

残念ながら女性にはまだ参政権がありませんでした。女性に参政権が認められるのは1945年のことです。
1925年には普通選挙法が公布されますが、これは25歳以上の男子すべてが選挙権を持つものであり、女性には選挙権を認められなかったのです。

そっか。税金を納めた男子という制限はなくなるけど、男子だけなんですね。

1925年の普通選挙法公布を最後に、時代はいよいよ昭和へと入って行きますよ!

関東大震災や第一次世界大戦、護憲運動や女性の社会進出、ラジオの普及など、大正時代は短期間ですが激動の時代でした。
日本はこの後、世界から孤立していくことになります。
なぜそのような道をたどることになったのか。
いよいよ時代は昭和です。
この歴史の物語もいよいよクライマックスです。

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ならぼん
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歴史大好き
歴史が好きすぎて日々の仕事よりもブログの更新ばかり考えています。現在世界で起こっている出来事は、すべて過去の遺物です。良くも悪くもその遺物の中で私たちは生きています。歴史を1本の線で捉えることができたとき、私たちは今何をすべきかが見えてきます。中学生の皆さん、歴史を勉強だと思わずに味わい尽くしましょう。その一助となるためにこのサイトを立ち上げました。ひとりひとりの思いが集まれば、世界は必ず変わります。みんなが安心して暮らせる世界を作っていきましょう。 管理人 ならぼん 身分 しがないサラリーマン 大好きなキャラ 野原ひろし 中学教員免許保持者
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