下関条約(しものせきじょうやく)
イギリスと条約を結び、ロシアの動きを抑えることに成功した日本。
朝鮮内では甲午農民戦争が勃発し、その鎮圧のために朝鮮政府は清に援軍を要請します。
同じころ、日本も朝鮮半島に進出し、日本と清が武力衝突しました。
日清戦争の開戦です。
戦況は日本優位に進み、清は日本との講和を余儀なくされます。
戦争は戦勝国有利に講和の条件を決めれらます。
日清戦争後の講和条約である下関条約は、日本にとって有利な内容でした。
1 清は朝鮮の独立を認めること
2 遼東(りょうとう)半島、台湾、澎湖(ほうこ)諸島を日本に譲り渡す
3 賠償金3憶1000万円を日本に譲り渡すこと
当時の日本の国家予算が約1億円でしたから、約3年分の国家予算を賠償金で得ることが出来ました。
清にとってはいかに壊滅的な内容であったかがわかります。







三国干渉(さんごくかんしょう)





この三国干渉を機に中国の弱体化が進みました。
古くからアジアの中心として栄えた中国。
しかし欧米諸国や日本により中国の分割占領が始まります。
結局、三国干渉により日本が返還した遼東半島の旅順(りょじゅん)大連(だいれん)をロシアが租借することになりました。
中国の満州へ進出を狙うロシアにとっては、この地は非常に重要な港湾でした。
他にはドイツが山東省の膠州湾(こうしゅうわん)、イギリスが九竜半島と威海衛(いかいえい)、フランスが広州湾を租借しました。
各国はさらに清国内での鉄道の敷設権、鉱山の開発権を清から手に入れました。
そして朝鮮は清から独立を果たし、1897年に大韓帝国(だいかんていこく)となりました。
※租借(そしゃく)とは期限付きで借りることです。しかし実質は占領に近いものでした。



義和団事件(ぎわだんじけん)

清は宣戦布告しますが、欧米列強と日本は連合軍を結成し、義和団を鎮圧します。
問題は、この後のロシアの態度です。
義和団を鎮圧し、解散したはずの連合軍ですが、ロシアは軍隊を引き揚げず満州を占領してしまったのです。
日本が危険視していたロシア。
そのロシアが満州まで勢力を広めてきたことは、日本にとって脅威でした。
※扶清滅洋(ふしんめつよう)・・・「清を扶けて(たすけて)外国勢力を討ち滅ぼす」




日露戦争

単独でロシアを敵にまわす力は日本にはありません。
そこで日本はイギリスと同盟を結びます。
しかしお互いに利がなければ同盟は成り立ちません。
イギリスは清国内に多くの権益を持っています。
イギリスにとってもロシアのアジア進出は厄介なことでした。
「ロシアに対する危機感」
これこそがイギリスと日本の利害の一致です。
こうして成立したのが日英同盟(1902年)です。


当時のアメリカの大統領はセオドア・ルーズベルトです。
長引く戦争を終わらせるには、講和が必要です。
その講和には条件がありますが、いかに自国有利な条件で講和に持ち込むかがカギです。
日本はアメリカに仲介を依頼することで、自国有利に戦争を終わらせようと考えました。


国内には多くの戦争反対論者がいました。
新聞社によっては戦争反対の記事を取り扱っていました。
しかし国内は戦争開戦モードが高まりつつあったので、戦争反対の記事を扱う新聞は売れなくなってしまったのです。
新聞社の存続のため、各社は戦争開戦論の記事を扱わざるを得なかったのです。
こうして国内は戦争開戦一色に染まっていきます。



1904年、日本海軍がロシア海軍を攻撃し、日露戦争が開戦しました。
日本軍は遼東半島に上陸しロシア軍と戦いました。
1905年、日本軍は5万人以上の死傷者を出し、旅順を占領しました。
約1年かかった旅順陥落作戦の間、ロシアは大艦隊の援軍を日本海に向かわせます。
有名なバルチック艦隊です。
40隻を越える大艦隊でした。
バルチック艦隊はヨーロッパのバルト海に展開する大艦隊です。
まともに日本海軍がぶつかっていれば、日本は敗北していたかもしれません。
しかし、バルチック艦隊は日本海に到着するのに実に半年以上かかっています。
ほぼ地球の反対側からの航行であったのでどうしても日数を費やします。
さらに当時の蒸気船は多くの石炭を補給しなければなりませんでしたが、ロシアが寄港できる港湾は非常に少なかったことも問題でした。
補給を受けることにも苦戦し、海兵がゆっくり休める場もなかったのです。
バルチック艦隊は、蓄積された疲労の中、日本海海戦に突入しました。
結果、日本海海戦は日本海軍の大勝利に終わりました。
※日本海軍司令長官は東郷平八郎(とうごうへいはちろう)と言う人です。
薩英戦争でイギリス艦隊と戦った薩摩藩士です。



日露戦争の最中、旅順が陥落した頃、ロシア皇帝ニコライ2世に対して市民が請願を提出しました。
抗議ではなくあくまでもお願いごとです。
内容は、労働者の待遇改善や権利を認めること、立憲政治の実現、日露戦争の停止などでした。
これらの請願の行進に対し、ニコライ2世は容赦なく発砲を浴びせました。
銃弾に倒れたのは労働者だけではなく女、子供までいました。
日曜日に起きたこの悲劇を「血の日曜日事件」と言います。
これがきっかけでロシア国内は一気に反戦ムードが高まりました。
国王ニコライ2世に対する不満も一気に高まり、もはや戦争継続できるような状況ではなくなってしまったのです。




